ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力編(4)~

 

『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』
『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』
『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ(1)(2)(3)(4)~』
『ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力(1)(2)(3)~』

からの続き。

今回から社会人編。

中学時代から何年にも渡って続けていた投稿をやめて、普通の聴くだけリスナー(という言い方でいいのか?)に戻ったときに一番感じたのは、放送を気楽に聴けるということだ。それまでは、フリートークの最中にも、どこか頭の片隅に「早くコーナーに行かないかな」という意識が常にあり、肩に少し力が入った状態で放送を聴いていた。コーナーに入るとそれがより顕著になり、誰か他の人のネタから派生してトークが膨らもうものなら、「ああ、読まれるネタの数が減る!」と、自分の心の狭さを痛感する悪い感情が芽生え、もともと闇属性だった人間がさらに暗黒面に落ちてしまう、といったことがしばしばあった。
そういった負の感情から解き放たれ、余計なことは一切考えず、ただただフリートークとコーナーが楽しめるようになったのは良かった。投稿は投稿で楽しいが、純粋に番組を楽しみたいのであれば、聴くだけリスナーに徹することを強くおススメする。

投稿をやめてから、番組では体験談系・報告系のコーナーが増えていった。この類のコーナーは、テーマによってネタを書ける人が限られてくるため、仮に自分がこの時期に投稿をしていたとしても、あまりネタを送れていなかったと思う。
当時、体験談系コーナーの中で特に人気だったのは『脳内商店街』というコーナーで、一時期は番組の後半1時間を全てこのコーナーに費やすほど盛り上がっていた。このコーナーは、ザックリ説明すると、オモシロ体験談を募集するコーナーである(超ザックリ)。体験談募集というと、若干お昼のラジオの匂いがするが、『俺ワールドから出られなくなった話』『お母さんオレオレって本当にオレだけど結果的に詐欺』『ふざけたつもりが、ポリス沙汰』『親が離婚した日』などなど、「そんなテーマに誰が送ってくるんだよ!」と突っ込みたくなるようなニッチなテーマが盛り沢山で、馬鹿力ならではのテイストが多分に含まれていた。募集するテーマは毎週3つあり、1番ネタが読まれたテーマが次週も生き残り、残りの2つは新たにテーマを立てるという流れだった。2018年現在の馬鹿力リスナーであれば、『勝ち抜きカルタ合戦』の体験談版だと思って頂ければ想像しやすいと思う。

自分としてもすごく好きなコーナーだったが、もう少し普通の(というか創作系の)ネタコーナーもやってほしいなぁ、という気持ちも少しあった。先にも述べたが、番組の大半がこのコーナーに費やされてしまうため、ガッツリ珍文を書きたい投稿者の人にとっては、いささか不満を感じるコーナー編成だったのではないだろうか。しかし、その反面で、毎週のように初投稿の人のお便りが数多く読まれ、新規リスナーの開拓が進んだという点では、番組の新陳代謝に一役買っていたコーナーだったように思う。

脳内商店街が終焉を迎えてからは、創作ネタ系のコーナーも増えていった。特に好きだったのは、毎回とある効果音をお題にして、その音から脳内に思い浮かぶ情景を川柳にするという『音5・7・5』のコーナーだ。これはリスナーの頭の中に絵を想像させるという点で、すごく深夜ラジオらしいコーナーだった。どの作品も秀逸なので、聴いたことのない方は、もし機会があったら聴いてほしい。

ネタコーナーが活発になってからは、自分の中にも投稿したい欲が少しずつ芽生えてきたが、仕事が忙しかったということもあって、実際に投稿するには至らなかった。自分の性格的に、暇な週のときだけ不定期に投稿するといったことはやりたくなかった。なんというか、「毎週ちゃんと投稿できる状況になるまでは出さない!」という変な拘りがあった。うーん、俺、めんどくさい。いじめ、かっこ悪い。

とまぁ、そんな感じで聴くだけリスナーとしての日々を送っていた。

そして月日は流れ、2008年9月15日。アメリカのリーマン・ブラザーズが経営破綻したことにより、世界的金融危機が発生した。俗にいう『リーマン・ショック』というやつである。当時、西原理恵子が何かの番組で「リーマン・ブラザーズってどこの兄弟?」と言っていたが、正直、私もその程度の知識しか無かったので、当時は対岸の火事とばかりに、自分とは無関係な出来事だと決め込んでいた。ところが、楽観的な私の考えをよそに、不況の波はジワリジワリとこちらに押し寄せ、当時働いていた現場との契約が切れて、私は本社に戻ることになった。そこからしばらくは待機社員として社内で勉強やら雑務をこなす日々が続いた。この頃は、社員の半分ぐらいが待機だったと思う。

会社の金を食いつぶしているという点で多少の負い目はあったものの、定時になったらサッと帰れるのは非常にありがたかった。ここで先ほどの話と繋がってくる。図らずも、毎週ちゃんと投稿できる状況ができたのである。悪い意味で。
そんなわけで「よし、いっちょ、投稿してみっか!」と決めたのだが、それと同時に、ある1つの想いが私の脳裏をよぎった。

「採用チャートを復活させたい」

採用チャートというのは、深夜の馬鹿力の第1回目放送からの投稿者のネタ採用数を集計してまとめている表のことである。昔は、"名もなきリスナー"ことつぼっくさんがチャートを管理しており、数ヶ月に1度ぐらいの頻度で更新されていたのだが、いつの日からか更新が止まり、チャートは完全に凍結してしまった ⇒ (http://www.kinet.or.jp/h_ijuin/chart/)

どうしてこのチャートを復活させたいと思ったかというと、昔、ミラッキさん(馬鹿力ではペンネーム大村彩子さん)も言っていたが、このチャートにラジオネームが載ると何か嬉しいのだ。別に誰かと競うとかいうわけではないのだが、投稿してる感が出るというか、自分もこの番組に参加している気がするというか、何か励みになるというか、まぁ色々である。そんな採用チャートを復活させれば、より投稿に対するモチベーションが高まるのではないかと思い、すぐに採用チャートをデータに落とし込む作業を始めた。今考えると、つぼっくさんに連絡して「集計を引き継ぎますので、データを頂けませんか?」と一言メールを入れれば済む話だったのだが、なぜ当時の自分がそうしなかったのは謎である。

で、最終的に、データに落とし込んで新たな採用チャートとしてアウトプットするまでに、2ヶ月以上の期間を要した。今考えると凄い熱量だったな、と思う(その熱量の1%でも仕事に向けていれば、もう少し偉くなっていたかもしれない)。とまぁ、それだけ頑張った甲斐あってか、最新回までの集計表をツイッター経由で公開したときは、多数の方から反応を頂いた。自分で言うのもなんだが、すごく意味のあることをしたと思っている。採用チャートを復活させたことで、世界線がかなり大きく変化したと信じたい(信じさせて)。
で、採用チャートを完成させた後は、準備は整いましたと言わんばかりに投稿を始めた。7年ほどブランクがあったので、感覚を取り戻すまでに時間がかかったが、自分なりに手ごたえのあるネタがいくつか書けた週(2010年10月04日)に、十面鬼というコーナーで採用を頂いた。ちなみに、読まれたネタは以下の二つである(いずれも酷めの下ネタだが)。

女子校にて。いじめっこの女子達に教科書類をトイレに全部捨てられた私。これにはさすがにキレて、半泣きになりながら主犯の女子につめよると、「そんなの知らないし、第一、あたしがやった証拠でもあるわけ?」としらを切ろうとする。いくら言っても「知らない」の一点張りで、全く認めようとしない。泣き寝入ろうかと半ばあきらめかけていたとき、突然、男性体育教師が現れ、正義感にあふれた頼りがいのある笑みを浮かべながら、「よし!先生が女子トイレを盗撮したカメラで確認してみればわかるな!」と言ったときの私といじめっこの顔。

ゲソが全て少女時代の足になっている巨大イカに絞め殺される悪魔に一晩中うなされ、汗びっしょりで目がさめたあと、自分のおちんちんがぎんぎんになっていたときの俺の顔。

最初、伊集院さんの口から「ペンネーム、藤井菊一郎」という言葉が発せられた直後、少し間があって「この人、昔、ハガキとか凄いくれてた人だと思うんですよ。なんか、AMラジオ長くやっててよかったな、ってこういう感じなんだよね。久々に伊集院でも聴いてみるか、みたいな」という予想外の反応が返ってきた。正直、学生の頃はたいして読まれてなかったので、名前を覚えてもらっていただけでも十分嬉しかったが、その日、2つ目のネタが採用されたときに「あー、今日この人すごいな。この人がまた書いてきてくれるの嬉しいね、こんだけ面白いと」と、思わずうれションがドクドク出てしまうようなお褒めの言葉を頂いた。決して大袈裟ではなく、このときは天にも昇る気持ちだった。

当時、馬鹿力ではお馴染みの投稿者の一人であるまげまげさんが、このときの放送を受けて、「藤井菊一郎さんの拾われ方は実に幸せだと思います」と自身のブログで綴られていた。自分としても本当にその通りだと思う。リスナーとの距離感が近い番組が多い中、この番組は適度にリスナーとの距離を保っており、べったりの関係には決してならない。そういう番組なだけに、こんな拾われ方はまず無いのである。
今回の件を例えるなら、投稿者は、いつも素っ気無い態度のイジュ子ちゃんを振り向かせようと必死にLINEを送るも、基本は常に既読スルー。たまに返信が返ってきても「どうも」の一言のみ。そんな中で、今回は「すっごく嬉しい!またメッセージ送ってね!待ってるよ!(はぁと)」ぐらいの返信を貰ったレベルのレアケースだと言えるだろう。

多分、この採用が無かったら投稿は続けていなかったと思う。それぐらい嬉しかった。
で、これを機に、社会人になって本格的に投稿を再開することになるのだが、それはまた次回。

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新年の抱負

もう1月も半ばなので、かなり今更な感じが否めないけれど、明けましておめでとうございます。このブログを読んで下さってる皆様、今年も宜しくお願いします。

去年のブログ更新回数は6回。年々更新ペースが順調に落ちてきているので、今年は少し盛り返していきたい。

ここ最近はラジオ投稿記のような長めの文章しか載せてないのだが、今年は"暮らしのヒント"のようなちょっとした短文も載せていきたいと思っている。「140文字に収まればツイッター、収まらなければブログ」ぐらいの棲み分けでいきたい。そうしないと、またブログを半年放置とかしかねないので。

ブログに関すること以外だと、2018年の抱負は、「去年よりちゃんとする」と「健康に生きる」の二つ。基本、この二つの抱負は毎年変わっていない。後者に至っては、子供の頃からずっと変わっていない。別段、今まで重い病気を患ったことなど一度もないのだが、小学校の頃から、神社でのお参りはもちろん、七夕の短冊にも「健康でいられますように」と、還暦を迎えた年寄りが書くような願い事を書いていた。目先の物欲には振り回されないぞ、という子供なりの主張だったのかもしれない。
今現在は「健康でいられますように」の頭に「家族みんなが」と付けるようになった。「来世は広瀬すずの妹として生まれ変われますように」など、願い事は色々と考えるのだけど、いつも最終的に家族の健康祈願に落ち着いてしまう。多分、それ以上の願いごとは無いということだろう。
自分の人生のモットーは「何事もなく静かに生きる」なのだが、それが全うできるように、今後もなるたけ健康には気を使っていきたい。

奇しくも、昔テキトーにつけたブログのタイトルが、内容と若干合ってるという。

ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力編(3)~

『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』
『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』
『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ(1)(2)(3)(4)~』
『ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力(1)(2)~』

からの続き。

まず、当時の放送について少し。

私が学生の頃に聴いていた馬鹿力は、今とは大分様相が違っていた。「違っていた」と一口にいっても色々あるのだけど、ひとつ大きな違いを挙げるとするなら、リスナー参加型企画の多さである。
今の馬鹿力は、リスナーはおろかゲストすら呼ばない完全引きこもりスタイルが定着しているが、昔は、スペシャルウィークのときにリスナーに電話をつないだり、リスナーのお宅を訪問するといったことが当たり前にあった。また、大勢のリスナーを一堂に集めて、当時のノベルティ『おしりコイン』を使ってギャンブル大会をしたり、珍文が書かれたTシャツを全国のリスナーに配布して、他のリスナーがそのTシャツを着ているリスナーを見つけるというスタンプラリー的な催しをするなど、かなり大規模なリスナー参加の企画も定期的に行われていた。通常のコーナーでも、リスナーに電話口でモノマネ&ボケ回答をしてもらう「○○選手権」のコーナーや、リスナーをTBSに集めて皆で電波歌を歌う「歌声喫茶」のコーナー、他にも、リスナーだけでユニットを結成してCDを販売するといった長期に渡った実験的コーナーも存在し、最近の引きこもりスタイルから聴き始めたというリスナーにとっては想像もつかないようなことが日常的に行われていた。

ここで少し脇道に逸れるが、前述のリスナーユニット(変死隊)のCDは、当時入手するのが本当に大変だった。最初は都内各地での限定販売という形をとっており、荒川の土手などでスタッフが手売りしたりしていたのだが、新潟に住む地方リスナーの私にとっては買いに行くのが困難な場所ばかりだったので、「この感じだと買うのは無理かなぁ...」と半ばあきらめかけていた。しかし、ある日の放送で、伊集院さんの口から「新潟の亀田にある和菓子屋さんに30枚入荷します」と、次のCD販売情報が発表されたときに「あ、ここだったら行ける!」と、その週の土曜日に足を運んでみたのだが、店に到着するやいなや、店員さんから「ああ、すいません、発表翌日の朝に完売しました」と申し訳なさそうに言われ、ションボリしながら帰りの電車に乗ったのを今でも覚えている。「新潟はJUNKをネットしていない地域だから大丈夫だろう」と高を括っていたのだが、熱心な馬鹿力ファンにはそんなこと関係なかったようだ。最終的にネット通販になってからようやく手に入ったのだが、それまでの手に入らないもどかしさたるや凄かった。きっと自分以外の地方リスナーの方も大体そうだったと思うけど。
ちなみに、元・変死隊のメンバーである戸谷さんとは、ひょんなことから数年前にご一緒する機会があったのだが、最初に生で声を聞いたときには「ああ、あの戸谷さんだ!」と、当時の放送と脳がリンクして凄く感動したのを覚えている。

話を戻す。

とまぁ、このように、90年代後半から2000年代初頭の馬鹿力は、リスナー参加型の企画が非常に多かった。こういった企画がなくなったのには、おそらく色んな理由があるのだろうけど、結局のところ、リスナーも伊集院光自身も年をとったということに尽きるのではないだろうか。まぁ、そんなこといったら「えー、でもー、伊集院と同世代の爆笑問題のラジオは、去年、リスナーをスタジオに呼んで仲良くトークしてたよー」と、意地悪なJUNKリスナーから突っ込みが入りそうだが、まぁ"うちはうち、よそはよそ"ということで。
去年、伊集院さんがテレビで「50歳にもなって深夜ラジオとかどうなんだろう、と思って」と話していたが、本人の深夜ラジオに対する向き合い方が、ここ十数年で少しずつ変化してきているのだろうな、と思う(まぁ、全く価値観が変わらずにラジオを続けてる人の方が稀だと思うが)。スタッフが入れ替わったり、帯で朝のラジオを始めたりと、周りの環境の変化に依るところもあるのだろうけど、なんだろう、やっぱり深夜の放送はもう少し続けてほしい。「深夜にあの声を聴くと安心する」っていう人、結構いると思うんだよね。

で、馬鹿力の本放送がそんな感じでリスナーと絡むことが多かったということもあってか、リスナー同士が交流するコミュニティも数多く存在した。
今はSNSが発達したので、ネット上でリスナー同士がつながろうと思ったら(性的な意味じゃないよ)いくらでも手段はあるが、その頃はまだそんな便利サービスは存在していなかったので、個人ファンサイトに設置してある掲示板やチャット、もしくは脳汁を触媒として直接脳に語りかける特殊な手法(俗に言う"ドクドク脳汁テレパシー")で交流するのがスタンダードだった。後半ウソ。
当時、ネット上で伊集院リスナーが集う場所といったら、最初に出てくるのは『イジューインホリック(以下、ホリック)』という伊集院系のファンサイトになるだろうか。ここ以外にも色々あったと思うが、最大手はホリックだったと思う。ホリックでは、その週に馬鹿力で読まれたネタが全て文字起こしされ、各ネタに対して来訪者から投票をしてもらい、ネタに対する集計ポイントで投稿者のランキングを付けるという、よっぽど暇、もとい熱意がないとできない企画をメインに、豊富な伊集院関係のコンテンツが数多く掲載されていた。
リスナー同士の交流も非常に活発で、定期的にオフ会が開かれていた。オフ会には、当時まだ高校生で唯一の地方組だった私も何度か参加させて頂き、慣れないオフの空気に戸惑いながらも、ラジオリスナー同士のふれあいを楽しませてもらった。そのときのオフで知り合った一部の方とは今でもまだリアルに親交があり、ちょいちょい自宅に呼んだり、外で飲んだりしている。ちなみに、自分の結婚式にもそのリスナー友達らを招待したのだが、「あの頃にホリックで絡んでた人たちを、まさか自分の結婚式に呼ぶことになるとはなぁ...」と妙に感慨深い気持ちになったのを覚えている。
当時、ホリック関連で知り合った他のリスナーの方とは、今もツイッター上で薄~くつながっているが、どちらかというと行方知らずになっている方のが多い。こういう話題のときに度々思うのだが、インターネット黎明期にネット上にいた人たちは一体どこに姿を消したのだろうか。このユビキタス社会、ネットにつながらず生活するのは不可能だと思うので、きっとどこかに生息はしているのだろうけど、SNSができたと同時期ぐらいのタイミングで一気に消えたような気がする。私はこれをデジタル神隠しと呼んでいる。

閑話休題

ホリック以外のファンサイトだと、(どちらかというと投稿者寄りになるが) 動力板やボツネタ供養掲示板などが交流の場としてあった。他にもつぼっくさんのところのチャット等、いくつか伊集院系のコミュニティはあったと思うが、自分が特に入り浸っていたのはこの辺の3つが主だった。
ボツネタ供養掲示板は、投稿してボツになったネタを掲示板に書き込んで供養するというコンセプトの板だったが、私の拙いネタにも温かいコメントをしてもらったりと、大変居心地のいい場所だった。ボツが続いても、ここの掲示板に投稿することで、ネタの供養と同時に心が浄化されていた。当時は特に不採用が多かったので、お世話になることが多かった。

で、この辺から投稿の話へシフト。

前述の通り、当時は本当に馬鹿力でネタが採用されず、3~4週に1回読まれれば良い方だった。「ハガキを送る枚数が少ないのかな?」と懐疑的になったりもしたが、当時の自分が書いていたネタのクオリティ的に、100枚出そうが大差なかったと思う。
ネタの送る数については、投稿者の間でたびたび話題に上がるが、こと馬鹿力に関していうと、いくら数を出しても読まれないものは読まれないと思っている。以前、実験として『愛実ちゃんにチョイ足し! 』というコーナーに、かなり無理をして50ネタほど捻りだし、その中で「採用されるならこれかな」というネタを事前に3つほどピックアップしてから放送に臨んだことがあるのだが、結果として、そのピックアップしたうちの2つが放送で採用された。このとき、数を送ったところで意味がないことを悟った。まぁ、その2つのネタを思いつく過程で50ネタ考える必要があったのかもしれないので、全く意味のない行為だとはいわないが、面白いか面白くないかをキチンと咀嚼せずに何でもかんでも送るのは、自分の中のオモシロ基準がブレるので、個人的にはよろしくないと思っている。
昔、さまぁ~ずのラジオで、ふかわりょう氏が「10個のネタを思いついたら、11個目のネタを送ってきてほしい」と話していたが、面白いネタを考えるってそういうことだよなぁ、と素人ながらに思っている。まぁ、1分程度で思いつくネタなんて、たいてい他の人も思いついてるだろうし。もちろん、11個目のネタを量産して送れるならそれにこしたこをはないが、私はそこまで器用、というかオモシロ脳を持ってないので、週に20ネタぐらいが限界だ。

学生時代の馬鹿力への投稿数は週に10ネタ程度だったが、なかなか採用されない中でも、めげずに毎週毎週送り続けていたので、トータルではそれなりに採用は頂いた。が、結局、ラッキーパンチ的なものばかりで、自分が納得のいく採用のされ方は一度たりともなかった。もちろん、放送で読まれたら嬉しいは嬉しいのだけど、なんというか、「すっごくお気に入りの服を着ていったのに、靴を褒められる」みたいな、そんな採用のされ方だったので、どこか自分の中で釈然としないことが多かった。多分、どこがどう面白いのか分からずに送っていたのだと思う。

ここでまた高速を降りて脇道に逸れるが、今現在、正月ということで実家に帰省しており、「そういえば、昔のネタ帳ないかな」と机の中をガサゴソとあさってみたところ、ネタ用の小さいメモ帳が二冊ほど出てきた。で、おそるおそる読んでみたところ、それはそれは目も当てられない酷いネタのオンパレードだったのだが、ネタが酷いということよりも「ああ、この頃の自分ってこんなこと考えてたんだな...」と、ネタを通して当時の自分の精神状態が強く伝わってきて、えらくノスタルジックな気持ちになった。
あと、酷いネタが多いとはいえ、闇属性を持つ高校生の心の叫びみたいな実体験ネタは割と笑えた。特にダメにんげん系のネタを眺めてると『誰のことを言ってるのか分からない内輪ウケのネタで、とりあえず爆笑している自分』『学校に漫画を持ってきてクラスメイトと回し読みとかしてるやつは、俺みたいに本気で本の世界に入っていない』『手淫をしていたら、まだイクつもりはなかったのに中途半端に出してしまったため、気合を入れ直してもう一回する』『クラスでも人気者で上位グループのやつと二人っきりになった場合、気まずさに耐えられるという点では、俺のほうが優位に立てる法則』あたりは、かなり実体験に則している感じがヒシヒシと伝わってきて、笑うと同時に軽く胃酸がこみ上げてきた。完全に闇に飲み込まれる前にネタ帳をそっと閉じたが、またしばらく寝かせてから、良い頃合いを見計らって開けたいと思う。

再び高速へ。

そんな中、第385回(2003年3月3日)の放送で採用されたのを最後に、馬鹿力への投稿をやめた。どうしてやめたのかはハッキリと覚えていないが、当時の自分の状況的に、とても投稿できる精神状態ではなかったのだろう。その1年後ぐらいに、気まぐれで2、3回送ったこともあったが、基本的に馬鹿力への投稿、というかラジオ投稿からは完全に身を引いた。その後、卒論も佳境に入ってきた頃には、半分ノイローゼみたいな感じになっていたので、より投稿どころではなくなっていた。その頃は、自分のホームページに『女形ラジオ』という10分程度のフリートークという名の愚痴を垂れ流した録音データをアップするのが日課で、それによって多少なりともストレスを軽減させていた。女形ラジオを上げていた頃は本当にストレスが酷く、知り合った当初はそれなりに仲の良かったゼミの女教授とも徐々にそりが合わなくなり、最終的に「君は人として大事な何かが欠落している」と真正面から言われたりと(まぁ、それを言われても大してショックを受けなかった自分が何かを物語っている気もするが)、図らずも自分の人間性について見つめなおす機会に恵まれた。

で、まぁ様々な苦難を乗り越えて、どうにかこうにか大学も卒業できて社会人になったのだが、学生のときに腐るほどあった暇な時間は、儚くも遠い日の幻のように消え去り、社会の歯車として働く日々だけが残った。よく就活や就職のタイミングで趣味をやめるという話を聞くが、こういうことなんだなぁとボンヤリ思ったりもした。それでも一応ラジオだけは聴いていたが、投稿を再開するという考えに至ることはなかった。

そんな感じで「もうラジオに投稿することも無いかなぁ...」と思っていたときに転機が訪れる。次回から社会人編。

 

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ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力編(2)~

『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』
『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』
『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ(1)(2)(3)(4)~』
『ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力(1)~』

からの続き。

馬鹿力を聴くのが習慣になるまでは長かったが、習慣になってから投稿するまでに時間はかからなかった。

馬鹿力の投稿に関する記憶を呼び起こしてみたところ、思い出せる範囲で最も古かった記憶が第214回の放送だった。年月日にすると99年の11月15日なので、番組を聴き始めてから約3か月後ということになる(実際には、もっと前から出していたのかもしれないが)。
この頃は、馬鹿力と同じ並びでやっていた『コサキンdeワァオ!』や『爆笑問題カーボーイ』はもちろん、文化放送や地方のラジオ局にも投稿をしていたので、馬鹿力は、あくまで、数あるネタ投稿ラジオの中の1つという位置付けだった。

ここで、当時の自分について少し話しておく。

当時、私は高校1年生で、入学早々からクラスにあまり馴染めず、数少ないホンの一握りのオタク友達以外には全く心を開かない子供だった。そして、その妙なプライドの高さゆえ、人からイジられることを極端に嫌い、できる限り注目を浴びないよう、息を殺すようにクラスに身を置いていた。結果、クラスの中では本当に存在感がなく、浮いた存在になっていた。「浮いた存在」という言い方は、ある意味では「周囲から奇異の目を向けられる存在」といった可能性も暗に含んでいるが、私の場合、そんなことは一切なく、例えば「もっとも存在感のない県って何県?」というアンケートについて考えてみたときに、「島根」とか「佐賀」は、存在感が無さすぎるがゆえに、むしろ序盤に出やすいと思うが、「岩手」辺りは意外と出ない。私は、まさに岩手のような存在で、存在感がないことを感じさせないほど存在感がなかった (島根、佐賀、岩手県民の人ごめんなさい)。
そんな、クラスでは全く目立たない虫みたいな存在の自分が、ラジオという舞台ではネタが読まれて、パーソナリティに笑ってもらっている、ということで、どうにか精神のバランスを保っていた。日々の鬱積した感情をハガキに書き殴ることが、自分の生きている証だった。誰かの言葉を借りるなら、当時は"闇パワー"で動いていた。

話がどんどん暗い方向にいってるので、一旦戻す。

そんなスクールカーストの最下層にいた高校生が、闇パワーを原動力として馬鹿力に投稿を始めるわけだが、初採用までの道のりは、想像していた以上に長く険しかった。初めて番組で自分のネタが読まれるまで、実に"10カ月"という期間を要した。その間、継続的にネタを出していたかどうかはハッキリと覚えていないが、自分の性格上、律儀に毎週送り続けていたと思われる。ただ、先にも述べたが、その頃は馬鹿力以外の番組にも投稿していたので、せいぜい出せても10ネタぐらいだったと思うけど。
このブログを書くまで、初採用までの期間を意識したことなど無かったが、まさかそこまで不採用が続いていたとは思ってもみなかったので、投稿するモチベーションが落ちなかった自分に感心するやら呆れるやらである。私の友人に「3回ぐらいラジオ番組に投稿したけど、読まれなかったからやめた」という男がいるのだが、普通はそんなものなんだろうなぁ、と思う。ラジオ投稿するにあたって一番大事なのは、類稀なネタを思いつく発想力ではなく、不採用が続いても根気よくネタを出し続けることができる忍耐力なのかもしれない。

で、初めてネタが読まれたのは、相田みつをの『にんげんだもの』をパロッた『だめにんげんだもの』というコーナーだった。このコーナーは、ダメ人間ならではの味わい深い短文を考えるというコーナーなのだが、当時はこのコーナーがBGMも含めて大好きで、もともとダメ人間気質な上に闇属性の高校生だった私は、日頃から考えていることや自分のダメな部分を、包み隠さずハガキにしたためていた。限りなく実話に則して書いたのが功を奏したのか、

「え、触りまくる?だめだって、間違ってるよそんな答え。だってさ、時間が止まってるのは1時間ってことなんだから、とりあえず写真とか撮りまくってさ、形になるもの残さないとだめじゃん」

というネタで初めて採用を頂いた。これは当時、クラスメイトの熊倉君(前回の投稿記にも登場)とよく「透明人間になったらどうする?」とか「時間が止まったらどうする?」といった非現実的なエロシチュエーションを妄想して、そこで取るべき最善の行動を議論していたときのやりとりの一部を切り取ったものだ。熊倉君とは日頃からこんな不毛な議論ばかりしていたので、妄想系のエロネタには事欠かなかった。
本当にどうでもいい余談なのだが、熊倉君と二人で「クラスの中でオナニーしてそうな女子」というテーマで話していたときに、私が希望的観測も込めて「XXXさん(クラスで一番美人な女子)は?」と言ったところ、「あのさ、真面目に考えろよ」と本気で怒られたことがある。真面目に考えて導き出せる問題なのかどうか分からないが、私の中で妙に印象に残っているダメエピソードの1つである。

で、この初採用を境に、少しずつではあるがネタが読まれるようになった。コサキンのときもそうだったが、1回読まれると、「ああ、こんな感じのやつが読まれるのかー」と感覚が分かってくるから不思議である。まぁ、読まれるようになったといっても、4~5週に1回ぐらいのペースだったが、自分の中では、それでも大きな前進だった。それまでは、「自分の地域から投稿したハガキは、馬鹿力に届く前に全てシュレッダーにかけられているのではないだろうか」と疑心暗鬼に駆られたりもしていたので、無事に届いていることが確認できただけでも良かった。ただ、それと同時に、ネタに目を通されている上でボツにされ続けている事実を突きつけられて、少々落ち込んだりもした。

当時、自分の中で特にお気に入りだったコーナーは、前述の「だめにんげんだもの」以外だと、「早押しクイズQQQのQのQ」が挙げられる。これは、伊集院さんが適当にクイズの回答として何か単語を言って、それが正解になるような問題文をリスナーが考える、というコーナーである。
例として、答えが「120%」になる問題として、以下のようなネタがあった。

今日の『森田さんのお天気コーナー』の中の出来事。森田さんの言ったユーモアに大笑いしたアシスタントの女の子の手が、誤って森田さんの顔に当たってしまい、森田さんのメガネが落ちてしまったからさあ大変。アシスタントがすぐさまメガネを拾い上げた時には、時既に遅し。先程の笑顔も、いつもの気の弱そうな表情もどこへやら、そこには赤銅色の鬼が一人。無言で女の後頭部をわしづかみにすると、天気図にドカーン。おびえ切った表情で「ごめんなひゃい」と謝る声も聞かずにも一度ドカーン。血染めの天気図にビビッたディレクターが、「画面を切り換えろ!」と叫んだのでスイッチャーが天気図をアメダスに切り換えるも、よく考えたらしぶきはそのまま、画面だけアメダス。ここでカメラに向かって森田さんの雄叫び。「ワシを怒らせたら血の雨が降る確率…」さて、何%?

もはや問題文の体を成していないが、要は正解に繋がればどんな文章を書いてもいい、というものだったので、投稿者の発想力が試される自由度の高いコーナーだった。ラジオなのに「シルエットクイズです。この人は誰でしょう?」みたいな問題文もあったし。
また、このコーナーで『珍文』という概念を初めて知ることになる。珍文という言葉が、この番組で生まれた言葉なのかどうかは知らないが、簡単に言うと、頭のネジが外れたような電波な文章を総称して珍文と呼んでいるようだ。自分の中では、コサキンでいうところの「意味ねぇ~」とニアリーイコールだと捉えている。QQQのQの珍文系のネタで、個人的に凄く好きなネタがある。それが以下(答えが「B型」になる問題)。

大相撲の土俵入りには、曙関の雲龍型と若乃花関の不知火型、トゲフリル関の放送禁止型、千代の富士の『大好きなおなじみさんからの真剣なプロポーズを「ウチは芸者やし、あんたみたいないいとこのボンボンとは釣り合いまへん。みんな夢、一晩限りの夢なんどす。さぁさぁ、若旦はん、飲んでおくれやす、ラー油を」』型の4種類ありますが、トゲフリル関の血液型は何型?

多分、普通の人が読んだら何が面白いのかサッパリ分からないと思うし、当時の自分ですら、このネタを初めて耳で聞いたときには「?」マークが何個も頭に浮かんだが、なぜかそれでも爆笑を禁じ得なかったのは、自分の脳が馬鹿力に順応したからだと思う。若干大仰な言い方になるが、後になって改めてこのネタを聴いたときに、"このネタを面白いと感じられる馬鹿力の土壌"に対して、何か深夜ラジオの可能性みたいなものを感じた。これは今でも感じることなのだが、「他の番組では絶対に読まれないけど、この番組だったらこのネタを読んでくれるのではないだろうか?」といった、行き場の無いネタの受け入れ先みたいな側面が馬鹿力にはあって、それによって救われている投稿者が数多く存在すると思っている。私も、その中の一人だけど。

閑話休題

QQQのQは、凄く好きなコーナーだったので、なんとしても読まれたかったのだが、残念ながら1度も採用されずに終わってしまった。当時の自分が送っていたネタを今改めて読み返すと、「そりゃあ採用されないわ!」と突っ込みたくなるような何の引っかかりもない文章のオンパレードなのだが、結局のところ、当時は、ただただ自分が面白いと思い込んでいる荒唐無稽なエゴの塊みたいな文章を送っては自己満足に浸ってだけだったように思う。ピカソの絵を見て「ああ、これなら自分にも書けそう」と安易に考えて、気の向くままに落書きをするのとなんら変わらなかった。実体験からシフトさせるネタについては、それなりに採用されていたが、1から創作で作ったネタに関しては、てんでダメで、かすりもしなかった。採用されることだけに拘るのも良くないと思うが、たとえば、過去に読まれた他の人のネタと自分が書いたネタを並べてみて、そこで自分が書いたネタが見劣りしないかチェックするだけでも、かなり違っていたと思う。

ただ、当時は今には無いパワーがあった。「たとえ読まれなくても、俺が書きたいんだから書く!」といった我を押し通すような独りよがりな思考で、何も考えずに書きたいネタを書いていた。多分、こういう気持ちが無いと投稿は楽しくない。今は若干この気持ちが薄れている感があるが、それでも「これ、絶対に読まれないだろうなー」と思いながらも、王ロバ感覚で井戸の中に放り込むようなネタを、まだちょいちょい出しているので、これが続く限りは投稿はやめないだろうなぁ。

自分がそうであるように、長く投稿が続く人は、こういうタイプだと思う。


次回も学生時代編。

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ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力編(1)~

『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』
『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』
『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ(1)(2)(3)(4)~』

からの続き。

今回の馬鹿力編を書くにあたり、どの辺りから書き始めようかなと迷ったのだが、過去の投稿記と同様に、自分が番組を聴き始めた頃から記憶を辿りつつ、順に振り返っていこう思う。

TBSのJUNK(当時はUP's)の並びだと、最初に水曜の「コサキンdeワオ!」、次に火曜の「爆笑問題カーボーイ」、そして最後に月曜日の「伊集院光 深夜の馬鹿力」を聴くようになった。番組を知ったタイミングについては、そこまで大差なかったと思うが、馬鹿力に関してだけは、毎週必ず聴くようになるまでに長い時間を要した。というのも、当時の私は、伊集院光を只のデブタレぐらいにしか認識しておらず、正直なところ、本人にあまり興味がなかった。これが全く知らない人間だったらフラットな気持ちで聴けたのかもしれなが、中途半端にテレビで知っていたぶん、変な先入観があったのかもしれない。後に、ラジオ関係のことを色々と調べていく中で、人気ラジオパーソナリティーとしての顔を知ることになるのだが、この頃は、伊集院さんが昔ニッポン放送でラジオをやっていたことも知らなければ、居酒屋で局長を一本背負いしてニッポン放送を追放された(かなり誇張が入っている)ことなども、もちろん知らなかった。

で、そういったこともあり、月曜深夜の同時間帯は、JUNKではなく、より自分の興味ある芸能人がパーソナリティーを務めていたオールナイトニッポン(以下、ANN)を優先して聴くことが多かった (そういえば、火曜日も最初は松村邦弘のANNを聴いており、番組が終了したタイミングで爆笑問題に切り替えたことを、書いていて思い出した)。

当時のANN月曜一部は、福山雅治が担当しており、若いリスナーに向けて下ネタ全開のトークを発信していた。今でこそ下ネタを話すのが一般にも知られているが、初めて福山雅治の口から「チンポたつたつ」といったモロな下ネタを聴いたときは、かなり衝撃を受けたのを覚えている。今でいうと、本人のキャラクターを全く知らない状態で星野源のANNを聴く感じに近いだろうか。
ちなみに、この頃の月曜二部はTMR西川貴教が務めており、一部と合体して二人で4時間ぶっ通しSPをやったりしたこともあった。そのときは、朝の5時近くまで起きていたので、翌日は眠い目を擦りながら学校に行った記憶がある。もちろん授業中は寝ていたけど。

福山雅治のANNが最終回を迎えると、次のANNパーソナリティーはロンドンブーツ1号2号だった。このタイミングでJUNKに乗り換えるという選択肢もあったのだが、当時の私はロンブーの方に興味があったので、継続してANNを聴く方を選んだ。ロンブーのANNは、月曜一部としては一年で終了したが、月曜SUPER!の枠(22:00-24:00)に移動してからも聴き続ける程度には好きだった。亮さんが島崎和歌子に本気で告白する企画とか未だに覚えてたりする。
余談だが、ロンブーANNの最終回は、芸人のラジオとは思えないほどスタジオがしんみりして、淳さんが号泣しながら「あー!終わりたくねぇー!」と言いながら番組が終了したのだが、その直後に「来週からは田村淳のANNが始まります」という音声が流れ、思わず「おいっ!!」とラジオの前で突っ込んだことを覚えている。ナイナイのANNが終了したときのように、「来週から岡村隆史のANNが始まります!」「おいおい、なんだよそれー!(笑)」とゲストに突っ込ませる茶番要素が一切なかったので、なんとも微妙な気持ちになったのを覚えている。

脇道に逸れたついでに、この頃のANN話をもう少し。

今でこそTBSラジオぐらいしか聴いていない私だが、当時はニッポン放送も結構聴いていた。それこそ「ナインティナインのANN」は毎週必ず録音して何度も何度も聴いていたし、当時、投稿者の間で絶大な人気があった「U-turnのANN」は、送られてくるネタの壊れっぷりが本当に好きで、毎週バカ笑いしながら聴いていた。
ネット上でラジオリスナーの方と交流するようになってからは、消印所沢さん(馬鹿力の常連投稿者)が方々で勧めていた「GOGO!7188のANN-R」を聴くようになり、同番組に投稿もしていた。ちなみに、消印所沢さんの口コミによって、馬鹿力の投稿者界隈にも番組の噂が広まり、結果、馬鹿力でしか名前を聴くことがなかった「まげまげ」「ピカわ」といった常連投稿者のネタが同番組で読まれる、といった現象が起こり、一部では妙な盛り上がりを見せていた。懐かしい。

話を戻して、

ロンブーのANNが22時の枠に移動するに伴い、入れ替わりでココリコがパーソナリティーを務めることになった。ここでもJUNKに移るチャンス(?)はあったのだが、当時の私は伊集院光ではなくココリコを選んだ。ただ、ココリコは自分的にあまりハマらなかったらしく、3か月も過ぎた頃には、完全に惰性で聴く感じになっていた。そして、番組内で「モーニング娘に対抗して、ノストラダ娘を作ろう!」という企画が立ち上がった辺りで、色々とついていけなくなり、月曜日のニッポン放送とはお別れすることにした。当時、どのくらいの人がココリコのANNを聴いていたのか知らないが、一部の番組にも関わらずWikiが存在しないあたり、人気の無さが伺える。

この辺から、ようやく馬鹿力の話。

かなり記憶がおぼろげなのだが、初めてマトモに馬鹿力を聴いたのは、リスナーを呼んでの『UP's音頭の盆踊り大会』の回だったと記憶している(後で調べたら、1999年8月16日なので、たぶん時期的にはあってる)。この回は、『夏休みエンジョイスペシャル』と題して、リスナーを呼んで盆踊りをしたり、リスナー宅にホームステイしたり、ハレンチ肝試し(日曜の夜9時半頃に、全裸で9Fと1Fの間をエレベーターで往復)をするという、平常回ではなく、いわゆるスペシャルウィークだった。そういう意味で、初めて番組を聴く私にとっては丁度よかったといえる。当たり前だけど、スペシャルウィークって意味あるんだね。

とはいえ、それでも最初は「なんか楽しいことやってるな」程度の感想しか持てず、細かい内容はあまり耳に入ってこなかった。番組の流れを理解して、面白さを感じ取れるようになったのは、聴き始めて1か月ぐらいだろうか。コサキンで慣れていた分、適応は早かったと思うが、ハマり方はコサキンよりも緩やかだった。なんというか、「気がついたら聴くのを止められなくなっていた」みたいな麻薬のようなハマり方だった。

番組を聴いていく中で、パーソナリティーである伊集院光のことも色々と知ることができた。元落語家だということ。元アイドルの奥さんがいること。日ハムのファンだということ。ゲームが好きなこと。高校三年生の三学期に中退したため、最終学歴が中卒なこと。小学校五年のときに実の母親から「お前は、蛇みたいな目をした子だ」と言われたこと。などなど、挙げればキリがない。

また、テレビでいつもニコニコ笑っているイメージと違い、深夜ラジオでは、触るものみな噛みつく、といったような毒性の強い人間だということも分かった。俗にいう"黒伊集院"というやつである。本人としては白伊集院とか黒伊集院といったように、テレビのキャラとラジオのキャラを明確に使い分けているつもりはない、といったようなことを言っているが、当時は黒伊集院を意識してやっていたようなふしがあったように思う。

あと、この番組を聴いていると、夢と現実の狭間をフワフワと漂っているような、そんな感覚に陥ることが多かった。深夜ラジオというのは結構そういうものだったりするが、この番組に関しては特にそれが顕著だった。故・談志師匠(「男子死傷」に誤変換された。悲しい)の言葉を借りるなら、イリュージョンを体現してるというのだろうか。伊集院光による、自分の妄想をリスナーの脳に直接送り込むような巧みなトークが、リスナーの脳汁の分泌を促進し、脳汁が溢れ出た状態で送られてくる投稿者のネタを聴いたリスナーがさらに脳汁を出し_...といった一連の電波サイクルによって、番組はガラパゴスな進化を遂げ、JUNKの中でも一種独特の雰囲気を放っていた。

馬鹿力が始まって20年も経っているので、今は昔に比べて色んな意味で落ち着いてはいるが、それでもかなりクセのある番組であることは間違いないだろう。なので、好みはハッキリと別れると思う。実際、「昔、馬鹿力を聴いてみたけど、どうにも合わなかった」というJUNKリスナーの方を何人も知っている。以前、このブログで、初心者でも入りやすいのはカーボーイだと書いたが、馬鹿力に関しては、ある程度、深夜ラジオに慣れ親しんでから聴いた方がいいと思う。ある意味、最後に行きつく場所(東尋坊的な)だと思っている。

長い前段と簡単な番組紹介だけで終わったので、次回は投稿の話まで行きたい。

 

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ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(4)~

『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』
『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』
『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ(1)(2)(3)~』

からの続き。

ガールのコーナーへの投稿を続けていく中で、「他のコーナーにも出したい!」という欲求が高まってきたので、他に自分が出せそうなコーナーへの投稿を始めることにした。"出せそうなコーナー"というと若干の語弊があるが、要は自分がネタを書きたいと思うコーナーである。

で、「カーボーイのコーナーといえば、やはりCD田中だろう」ということで、何週かに渡ってCD田中に挑戦してみたのだが、これが箸にも棒にも引っかからなかった。前回も書いたが、CD田中というのは、SASUKEに出るようなアスリート志向の投稿者の方々が、先人たちが築き上げてきたネタの黄金パターンを礎として、日々新しいパターンを模索しては日進月歩で進化を遂げている、素人にはなかなかハードルが高いコーナーなのである。

コサキンでCD大作戦のネタを書いていた頃は、採用されなくても「次こそは!」と躍起になったものだが、CD田中は、選曲に加えて、放送中に田中さんが発した台詞を逐一チェックしなくてはならないため、何かのタイミングで「これは労力に見合わない」と見切りをつけて、早々にネタを書くのをやめてしまった。このコーナーに継続してネタを出し続けられるのは、本当に選ばれた人間だけだと思う。

ちなみに、先日、某ラジオ関連の飲み会で、カーボーイでも名前をよく耳にする常連の方(コミュニケーション能力が吐瀉物レベルに低いという意味のRNの方)から「CD田中に60ネタを送って全ボツだったことがある」という話を聞いて「ああ、ホントに狭き門なんだなぁ...」と改めて思い知らされた。もちろん、当時と今では採用基準も送られてくるメールの数も違うと思うが、それほどまでに情熱を持って投稿してくる人が毎週数多くいるわけだから、そこに食い込むのは一筋縄ではいかない。

そんなわけで、CD田中はスパッとあきらめたのだが、CD田中以外だと、当時は正直そんなに投稿したいコーナーが無かった。前回紹介した「今週の田中」は、爆笑問題の出ている番組をチェックしなくはいけない分、むしろCD田中よりもハードルが高かったし、リスナーが自分の周りの酒豪自慢を紹介する「酒豪自慢」は、どうしても似通った系統の長文ネタになると思ったので、出す気は全く無かった (あと、カーボーイでは長文ネタでしか読まれたことがなかったので、短文ネタが書きたいという気持ちもあった)。一応、短文ネタのコーナーがいくつかあったのだが、自分の中でいまいちピンとこなかったので見送りにしていた。今考えてみると、本当にワガママだな俺。

そんな中、何の前触れもなく突如始まったのが、「長井秀和ネタCD化計画」というコーナーである。これは、タイタン所属の芸人・長井秀和氏が、自分のネタCDを発売するべく、リスナーからネタを募集するという、ある意味では他力本願ライブのようなコーナーなのだが、カーボーイとしては珍しく、長井さんがネタを選び、長井さんがネタを読み上げるという箱番組スタイルだった。ちなみに、長井さんといえば、今でこそあんな感じだが(失礼)、当時は「間違いないっ!」の決め台詞が流行し、精力的にバラエティにも出ていた。また、当時は本人が管理している個人サイトも存在し、そこの掲示板でリスナーやファンと交流をしていた。私もそこで何回か本人とやりとりした記憶がある。

で、この長井さんのコーナーは「割と自由に書けそうだな」と直感的に思ったので出すことに決めた。最初は、お約束の「間違いない!」で締めるネタだけだったのだが、コーナーの雰囲気的に「これ、もしかして自分で勝手にフォーマットを作って送ったら読まれるのでは?」と思い立ち、「間違いない!」以外のパターンのネタをいくつか送ってみたら、これが採用された。それ以降は、リスナーが自由にフォーマットを考えて、それに乗っかってまた新しいネタが生まれる、というサイクルができていった。

これは、このブログを書いていて気付いたことだが、私はフリーフォーマットで好き勝手に書けるコーナーが好きらしい。ずっと投稿していた「ザ・ガール」も基本的には何を書いてもいいコーナーだったし、後に始まった「少年ピップ」というコーナーは、"ピップ"という登場人物さえ出せば、後は何を書いてもいい、という、あまり制約の無いコーナーだったので、その自由さに惹かれて何通かメールを送ったのを覚えている。「面白い短編小説が読みたい」のコーナーしかり、昔は今と比べてリスナーに丸投げするコーナーが多かったように思う。

で、そんなこんなで、ついにネタCDを発売するとなったとき、CDに入れるネタを書いたリスナーが番組内で発表され、私の名前も読み上げられた。そして後日、ノベルティと一緒に『お話しさせていただきます。』というネタCDが番組から送られてきて、韓流スターのような笑みを浮かべた長井さんのジャケットの裏に、ちゃんと「フジキク」という名前が小さく書いてあった。後にも先にも、CDにラジオネームが載ったのはこのときだけである。

ちなみに、長井さんはテレビでもリスナーのネタをやっており、TBSの「うたばん」にゲストで出ていたときは、私の書いたネタが普通に使われていた。それを観たときには、嬉しいような恥ずかしいような、なんとも言えない不思議な気持ちになったのを覚えている。当時は周りにラジオを聴いてる人がいなかったので、誰にも言えなかったけど。

とまぁ、爆笑問題カーボーイの投稿にまつわる思い出は、大体こんな感じだろうか。

4回に分けて長々と書いたが、これらは全て1999年~2003年までのたった4年間の出来事である。まだ田中さんの玉も2つあった頃の話だ。そこからさらに今日に至るまでの14年もの間、数々のコーナーが生まれては消え、投稿者も目まぐるしく入れ替わり、田中さんの玉も1つになった。私にとってはこの4年間が一番印象深いが、他のリスナーにとっては、きっとそれぞれ思い入れのある時期は違うだろう。夢中になって聴いていた時期というは、往々にして、ラジオを聴き始めた時期と一致するので、今年から番組を聴き始めた若いリスナーにとっては、きっと今が一番記憶に残る時期になると思う。この時期を、ホントに大事にしてほしい。

最後に、若干臭い言い回しになるが、投稿者が10人いれば、10人分のドラマがある。このブログを読んで何かを感じてくれる人がいたら、そのドラマを少しでも私に見せてくれると嬉しいな、なんてことをボンヤリと思いながら締めの言葉とさせて頂く。


次回、『ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力編~』へ続く(かもしれない)。

ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(3)~

ラジオ投稿記~STVラジオ編~
ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~
ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(1)~
ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(2)~

からの続き。 


まず、自分自身の話を少し。

ガールのコーナーで読まれるようになったのと時期を同じくして、ラジオ関係のサイトで知り合った女性(以下、Aさん)とメール友達になった。当時、私は高校生で、Aさんは自分より年上のOL。お互いに住んでいる地域が離れていたので、コミュニケーションの手段はメールのみだったが、精神年齢の低い男子高校生の自分からしたら、大人のお姉さんとメールをするのは凄くドキドキしたし、そんな人とラジオの話ができるのはとても楽しかった。もちろん、カーボーイの話もした。

高校生の男子というのは、往々にして恋に落ちるスピードが速い。しかも私の場合は、かなり童貞をこじらせていたので、色々と自分の中で妄想を膨らませすぎた結果、会ったこともなければ電話すらしたこともないAさんに対して、無謀にもメールでの告白を決行した。そのときのメールの文面はハッキリとは覚えていないが、「好きって言ったら笑いますか?」といった、童貞ラブレターコンテストがあったら大賞を狙えそうな文章を延々と書き連ねた記憶がある。多分、今読んだら1時間ぐらいはジタバタできると思う。

で、当然のごとくフラれた。そうなることは自分でも薄々気付いていたので、「まぁ、仕方ないよな」と早々に心の整理はつけたつもりだったが、どうしても自分の胸の中だけで留めておくことができなかったので、告白したことをカーボーイに投稿することにした。当時の自分は、ラジオ投稿を"何を叫んでもいい井戸"のように考えており、ラジオに投稿さえすれば何か自分の中で救われると思い込んでいたふしがあった。

ただ、投稿したといっても、あくまで本チャンのガールネタのついでとして書いたものだった。その上、どうせ読まれないだろうと高を括り、「BGM:尾崎豊『I love you』」と文頭につけてみたり、面白いことを一切入れずにに事実を淡々と述べるなど、ネタというより、単なる独白みたいな文章を送った。

こういうリスナーのオナニーみたいな文章も悪ノリで読むタイプの番組だということを、このとき完全に失念しており、結果として、童貞が井戸に向かって叫んだ言葉は、ラジオを通して全国のカーボーイリスナーの耳に届くことになった(ちゃんとBGM付きで)。

この独白文が読まれてからというもの、Aさんからはパッタリとメールが来なくなった。待つのに耐え切れず、こちらからメールでおそるおそる聞いてみると、1行だけ「またネタにされるといけないからね」という返事が来て、そのメールを最後に、Aさんから二度と連絡が来ることはなかった。

以前、NHKの「ハガキ職人のウタゲ」というラジオ番組に出させて頂いた際にもこの話はしたのだが、今考えても本当にイタいやつだったなぁ、と思う。「イタいやつだったなぁ」と書くと、まるで今現在は直っているかのように思えるが、ごく稀に「ああ...送るんじゃなかった...」と後悔するような実話ネタを送っては不採用になってホッと胸を撫で下ろす、といったことを繰り返しているので、根っこの部分では当時とたいして変わってない気もする。

番組の話に戻る。

この一件で、ネタの中にBGMを流してもらえるということが分かり、おのずとBGMを使うネタが増えていった。FMの音楽番組などでリクエストは1曲も読まれたことはないが、カーボーイではネタを通して色々と曲をかけてもらった。もちろん、爆笑問題の二人が知らない曲はかからないと思っていたので、選曲は古めだったけど。私の音楽の引き出しだけでは限界があったので、当時メル友だった伊集院系の投稿者でクソムシさんという方に「こういう状況のときに流す曲ってどういうのが合いますかね?」と相談に乗ってもらったりもした。BGMを使うネタは私の専売特許みたいな感じになっていたらしく、私以外が書いたガールのネタでBGMが使われることは一度もなかった。ただ、BGMを使うのはドーピングにも似た感覚があり、他の投稿者に対して後ろめたいという気持ちがあったのか、できるだけBGMを使わないネタも書くように心がけていた。

当時は、JR時刻表マニアさんがカーボーイでの採用数を集計するサイトを運営しており、そこでガールのポイントも合わせて集計していた。あるとき、私の合計ガールポイントが1000ガールに達したので、(前回のラジオ投稿記で取り上げた弟子のコーナーではないが) 何かのネタのついでに「1000ガールを超えたので、名目上、田中さんの弟子にして頂けませんか?」と頼んでみた。すると田中さんから「ああ、別にいいよ」と軽い感じでOKをもらえたので、一応、私が田中さんの4番目の弟子ということになっている。ちなみに、ミセスチルドレン(現タキシードは風に舞う)さんも同じように1000ガールを超えて、私と同じく弟子になることを番組内で所望したので、5番目の弟子となった。それ以降は、私の記憶が確かなら弟子希望者はいなかったはず。ちなみに、弟子になったからといって、それで何か得をしたことは一度もない。

この頃のカーボーイはというと、ザ・ガールのコーナー以外に、田中さんの悪行をリスナーの視点で報告する「今週の悪田中」、太田さんが適当に思いついた言葉の意味を辞書風に考える「新明解太田辞典」、身の回りにある300:29:1(ハインリッヒの法則)の事柄を考える「ハインリッヒの法則」、そして今も現役バリバリの「CD田中」などがあった。自分が投稿していた時期というのもあるが、この頃のコーナーのラインナップはとても好きだった。

"全盛期"というと語弊があるが、CD田中が一番にぎわっていたのも、この頃だったと思う。というのも、当時はオングストロームさんというCD田中専属の投稿者さんがいて(大変お世話になりました)、その方がCD田中のファンサイトを運営していた。しかも、歌詞をサイトに載せるということで、わざわざJASRACにお金を払っていたので、CD田中にかける情熱がどれほどのものかお分かり頂けるだろう。CD田中に憑りつかれている投稿者の方は今でも多いが、このコーナーは投稿者を熱くさせるSASUKE的な魅力があるのかもしれない。
ちなみに、田中さんがCD田中のネタで笑いすぎて宛先が読めず、代わりに太田さんが宛先を読んだのもこの頃である。

「今週の悪田中」も好きだった。その週に放送された爆笑問題の出演番組をチェックし「これは悪い田中だなぁ~」と思ったことをリスナーから報告してもらう田中さんイジりのコーナーなのだが、ここに送られてくる報告メールの観察力と悪意の含ませ方がホントに絶妙だった。報告を受けた田中さんが、「いやいやいや!オレ、そんなこと思ってないから!」と否定して、そこからさらに番組の裏話へとトークが広がる流れも好きだった。後に「今週の良い田中」「今週の普通の田中」が生まれ、最終的には「今週の田中」というコーナーに統合されるのだが、報告系のコーナーとしては今でも一番面白いと思っている。
それにしても、田中さんの言動をチェックするコーナー、多いな。

で、そんなコーナーの隆盛に反して、オープニングのフリートークは、聴いていて「キツイなぁ」と思うことが結構あった。太田さんが田中さんを罵倒するのは、今でも日常茶飯事的に行われているが、当時はそれが度を超えており、本気で田中さんの人格を否定をするような場面も見られた(まぁ、本気なんだろうけど)。田中さんが自分の話をさせてもらえない、といったことも多かったので、今の、田中さん主導で話が進んでいく形式に慣れている若いリスナーは、当時の放送を聴いたら衝撃を受けるのではないだろうか。まぁ、その険悪な空気も含めてオモシロ、という風に言われればそうなんだけど、当時の私はそれを受け入れられるだけのキャパシティがなかった。

今回でカーボーイ編は終わる予定だったが、もう少し書きたいこともあるので、それは次回に持ちこし。というわけで、『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(4)』へと続く。多分、次回でラスト。



当時、ガールのコーナーに送っていたDJ夏美シリーズが youtube に上がってた

www.youtube.com