ロンドン旅行記 (二日目)
ロンドン二日目。 雨こそ降らないものの、この日も天気はどんよりとしていた。ロンドンで迎える初めての朝だったので、気持ちよくカラッと晴れていてほしかったが、そもそも晴れることの方が珍しいらしいので、そういうものだと割り切ることにした。
着替えて1階の朝食ブッフェに行くと、パン、スクランブルエッグ、ハム、ベーコン、ベイクドビーンズ、ソーセージ、マッシュルームソテー、ポテト、チーズ、ナッツ...などなど、いわゆる『イングリッシュブレックファスト』と呼ばれる料理が所狭しと並んでいた。はやる気持ちを抑えつつ、胃のキャパシティを超えない程度に料理を皿に盛り付けた。
そんなに沢山とったつもりはなかったが、これがズシっとお腹に重くのしかかってきた。特に、ソーセージとベーコン、マッシュルームソテーが重く、「基本的に、油を使う料理はとことん脂っこいんだな」と、このとき悟った。
この日の午前中は、佐藤さんというツアコンの方がロンドンを案内してくれることになっていたので、早めに身支度を済ませてロビーへと向かった。ロビーでは、既に佐藤さんと思しき女性がソファに腰かけて私たちを待っていた。テーブルを挟んで佐藤さんと対峙し、「よろしくお願いします」と会釈すると、彼女は「今日はね、とても楽しみにしてたの」と、人なつっこい笑顔をこちらに向けてきた。箕輪さんから"佐藤"という名前だけは聞いていたが、それ以外の情報がゼロだったので、勝手に若い女性だと思い込んでいたが、実際は、年のころ50代のミセスだった。
佐藤さんはテーブルの上に地図を広げ、ロンドン市内の各エリアについて簡単に説明してくれた。
「いい?ロンドンは大きく東と西に分かれていて、東はシティ・オブ・ロンドンを中心とした金融街、西は商業や文化施設などが集中している、いわゆるウェスト・エンドと呼ばれる娯楽の中心地なの。だから、イギリス人は、東側で一生懸命働いてお金を蓄えて、西側で人生を謳歌するわけ」
語尾に「わけ」を多用する桃井かおりのような口調で話す佐藤さんの一言一言に、うんうんと頷きながら、実際にどこを見て回るのかを相談した。私たちが泊っているホテルは、ちょうどその東西の分かれ目であるトッテナム・コート・ロードのすぐ近くで、立地の面ではとても恵まれていたらしく、佐藤さんから「あなた達、運が良いわよ」と言われた。ちょいちょい芝居がかった台詞を挟んでくるため、まるで自分たちが映画の主人公にでもなった気分だった。
そんなこんなで、行く場所がある程度固まると、ホテルのすぐ近くにあるトッテナム・コート・ロード駅へと向かった。
観光スポットを回りながら、佐藤さんから地下鉄やバスの乗り方も合わせて教えてもらった。
日本では、公共交通機関を利用する際の乗車カードとして『SUICA』があるが、ロンドンでも『オイスターカード』という似たようなものがある。これを改札機の読み取り部にタッチすることで、自由に地下鉄やバスに乗ることができるのだ。 最初、「なんでオイスター(牡蠣)?」と思ったが、それを言ったら、日本も「なんでスイカ?」なので、名前についてはあまり深く考えないことにした。旅行会社から、10ポンドが入ったオイスターカードを事前にもらっていたので、そこに20ポンドを追加でチャージした。
トッテナム・コート・ロード駅からノーザンラインに乗って南下し、ウォータールー駅で降りると、目の前にはテムズ川が広がっていた。世界最大の観覧車ロンドン・アイを視界の端で捉えながら川沿いを5分ほど歩くと、前方にビッグ・ベンが見えてきた。ビッグ・ベンとは、国会議事堂に付属する時計台の通称である。ロンドンを象徴するランドマークということもあり、遠くから見ても大分迫力があった。
合間合間に記念写真を撮り、大きな音で鐘が10回鳴り響いたのを聴いてから、休む間もなくトラファルガー広場へと移動した。広場の中に、ナショナルギャラリーの入り口へと続く階段があった。
館内は、ゴッホやダ・ヴィンチをはじめとした世界的に有名な画家の作品が数多く展示されていた。日本の美術館と違い、写真撮影も特に禁止されておらず、とても自由で開放的な空間だった。美大の学生と思しき女性が1枚の絵の前に座り込み、スケッチブックを広げて精巧な模写をしている光景なども見られた。
佐藤さんは絵画にも精通しているらしく、有名画家の作品について、丁寧かつ係員に注意されるのではないかと心配になるほど大きな声で私たちに解説してくれた。特に、マイク・タイソン、カイジと並んで『世界三大・耳ちぎり』として私の中でお馴染みのゴッホについては、その耳ちぎりエピソードを含めて、生い立ちを詳しく話してくれた。
そんな佐藤さんに、「一番好きな画家は誰ですか?」と聞いてみたところ、「うーん、そうねぇ、カラヴァッジオかしら」という返事が返ってきた。正直、私は絵画について明るくないため、『カラマチオ』と空耳して、「何かエロい単語かな?」ぐらいにしか思わなかったが、妻が「私の持ってるバッグに、カラヴァッジオの絵が使われてるのがありますよ」と反応し、意外なところに二人の共通点があることが分かった。
ナショナルギャラリーを出ると、そこからバスに乗った。ロンドン名物の赤い2階建てバスである。バスに乗るのはこれが初めてだったが、オイスターカードで「ピッ」とやるだけなので、乗るのは簡単だった。ただ、『何番のバスがどこに行くか』とかはよく分かってなかったので、地下鉄と比べてバスはまだハードルが高いな、と思った。
バッキンガム宮殿の近くのバス停で降りて、大きめの通りへと出た。佐藤さんが「タイミングが合えば騎兵隊交替式が見れるかも」と言っていたが、タイミング的にバッチリだったようで、宮殿の方から馬に乗った騎兵隊がやってくるのが見えた。
馬に跨って悠々と闊歩する姿はカッコよかった。あと、警察が馬に乗ってるのは、なんか良い。 で、騎兵隊交替式の後に、続けて衛兵交替式。こっちの方がロンドンっぽい感じがするのは、赤い制服と黒いモコモコの長帽子のためだろうか。ちなみに、秋になると、この赤い制服からグレーのロングコートになるらしいが、やはり夏期制服のが映える。
騎兵隊が通り過ぎた後の道路に散乱した馬糞を横目に、そのまま徒歩でバーリントン・アーケードへと向かった。バーリントン・アーケードとは、歴史と格式の高いお店が軒を連ねた、世界最古のアーケードである。 このアーケードには独自のルールが設けられており、走ったり、大声で話したり、口笛を吹いたり、光に当てたり、水をかけたり、12時過ぎに食べ物を与えたりするのはNGらしい。後半に若干の嘘も混じっているが、こういった独自ルールがあるあたり、格式の高さが伺える。ウィンドウ越しに店内を眺めるだけでも、一般庶民がとても気軽にショッピングできるようなところではない、ということが分かるほど高貴な雰囲気が漂っていた。実際、貴族御用達の店も多いらしい。
この後は、サンドウィッチ発祥の店や、山高帽発祥の店など、興味深い店を何件も案内してもらった。あっという間の3時間が過ぎると、バスでトッテナム・コート・ロードへと戻り、最後に、佐藤さんから「旅行だからって、夜逃げみたいにあっちこっち忙しく動き回るんじゃなくて、イギリスのテンポで、ゆっくりと楽しんでいって下さい」というお言葉を頂き、彼女とはそこでお別れした。
ホテルへと帰る道すがら、『Sainsbury's』というスーパーマーケットに立ち寄った。 ここで、イギリスではお馴染みの、マーマイトという癖のある調味料やら、紅茶などを買った。
会計のコーナーに行くと、通常のレジの他にセルフレジがあった。セルフレジはいまいち使い方が分からなかったので、通常のレジの方に並ぶと、そこにひときわ目立つ黒人の女性店員の姿があった。かなりふくよかな身体をしたその店員は、人目もはばからず気持ちよさそうに歌を歌っていた。日本だったら間違いなくアウトな行為だが、そこはユーモアの国イギリス。他のレジの店員もお客さんも、それを見てゲラゲラと笑っていた。
自分たちの番が回ってくると、運命の悪戯か、その店員のレジにあたった。彼女の前に立つと、「オー!ニホンジン!?」と片言の日本語で聞いてきたので、はい、と答えると、続けて「コンニチワー!」と笑顔で挨拶してきた。他の店でもそうだったが、外国人から日本語で挨拶されると妙に嬉しくなるもので、この店員との距離が急激に近くなったような気がした。
この店員、頭に巨大な安全ピンのアクセサリーを大量に付けていたのだが、それを見て妻が、「I have the same one.(私も同じやつ持ってます)」と言った。そういえば私も何か見覚えがあるな、という気がしていたのだが、妻が所持しているヴィヴィアン・ウエストウッド(イギリスのファッションブランド)のバッグにも、安全ピンをモチーフにしたやつがあったな、ということを思い出した。この妻の一言をきっかけに、妻と店員の距離がさらにグッと縮まり、そこから片言の英語と日本語を交えながらの会話が弾んだ。
彼女は「Kizitta」という名前で、このスーパーマーケットとは別に、服屋をやっているらしい (あと、後で調べたらユーチューバーだということが判明した)。Kizittaさんは、その服屋の住所と電話番号をレシートの裏に書き「よかったら連絡してね」と言って、私たちに渡してくれた。ありがとうと言ってガッツリ両手で握手をし、少し名残惜しい感じで店を後にすると、妻が「Kizittaさんとは、また会ってみたいね」と言った。
私の脳内に住んでいる落語家が、「いやぁ~、安全ピンってのは、人と人とを繋ぐモノでもあるんだなぁ~」と、人情噺のサゲっぽい台詞を言って、静かに袖へとはけていった。
この時点で昼の12時を回っていたが、私も妻も朝食がまだ消化しきれておらず、とても昼食をとれる状態ではなかったので、部屋に荷物を置いて少し休んだ後、歩いて大英博物館へと向かった。
「世界最大級の博物館に、徒歩5分で行けるなんて贅沢な話だなー」などと思いながら博物館の門をくぐると、そこには数十本の円柱が立ち並ぶギリシャ神殿風の建物が立っていた。「早く沙織お嬢様を救い出さねば...!」と思ったり思わなかったりしながら博物館の中に足を踏み入れると、大きな円柱がそびえるメインホールが目の前に広がった。
明るい白を基調とした壁と床によって、開けた空間がより広く感じた。
大英博物館は最終日にも行ったので、5日目のブログに写真も含めてその辺のことはまとめて書くことにする。
17時頃になると、さすがにお腹が空きはじめたので、ホテルのすぐ近くにあった『TAS』というレストランで、本場のフィッシュ&チップスを食べることにした。ただ、やはり「イギリス料理 = 美味しくない」という先入観があったため、実写版の『進撃の巨人』を観るとき並にハードルを下げてフライを食べたところ、これがとても美味しかった。外はカリカリ、中はふっくらで、タルタルソースとの相性も抜群だった。付け合せのポテトとサラダも普通に美味しかった。
まぁ、店によって大きく当たり外れがあるとも聞くので、今回の店がたまたま当たりだったのかもしれないが、これで私のイギリス料理に対する偏見が少し取れたような気がした。
店を後にすると、今度は徒歩でオックスフォード・サーカスの方まで足を延ばし、しばらくウィンドウショッピングを楽しんだ。
再びホテルに戻り、部屋のベッドに倒れ込んだときには、足がパンパンになっているのが分かった。そして、パンパンマンへと変身した私の足が「本日の歩行可能距離が限界に達しました!」と戸田恵子ボイスで強く訴えかけてきたところで、本日の笑点お開き、とばかりにシャワーを浴びて、死んだように寝た(2度目)。
二日目終了。
ロンドン旅行記 (日本出発~ロンドン初日まで)
去年からずっと新婚旅行に行くタイミングを逸していたのだが、今年に入ってから仕事も落ち着いてきたのと、周りから「行ったほうがいいよ」と背中を押されたこともあって、9月の祝日が固まっている週に、1年遅れのハネムーンに行くことに相成った。
当初、計画を立てるにあたって、妻に
「旅行、どこ行きたい?」
と聞いてみたところ、
「ロンドンか鳥取」
という、これが「どっちの旅行ショー」だったら、鳥取側に付いたMCがぶちギレるほどの釣り合いのとれていない2択が返ってきたので、俺脳内会議により満場一致でロンドンに行くことに決定した (鳥取県民の方、ごめんなさい)。
ちなみに、鳥取を候補に挙げたのは、(妻が)大好きな水木しげる氏の生まれ育った境港市に行きたいという理由である。
旅行会社については、結婚式で自分たちの担当だったウェデイングプランナーの方が紹介してくれたところに決めた。会社の公式ホームページを通して、担当の方にざっくりとこちらの希望を伝え、それに添ってロンドンの旅行プランを組んでもらった。
ちなみに、私と妻の海外旅行経験について少し説明すると、 妻は社員旅行でアジア(上海、香港、マカオ、台湾)に何回か行っているが、 自分は会社のイベントでグァムに1回行ったことがあるだけである。
お互い、ガッツリと英語圏の国に行ったことがなかったので、その点については不安があったが、妻としては飛行機に長時間乗る方に極度の不安を感じていたようだ(飛行機が大の苦手)。
そんなこんなで旅行当日。ワクワクよりも不安が勝る精神状態で羽田空港へと向かった。小学校の頃に先生から習った教え『5時間前行動』をしっかりと守り、出発の6時間前には空港に着いたので、空港で買った文庫本を1冊読み終わるほどの暇、もとい、余裕をもってフライトに臨むことができた。
経路としては、羽田空港から出発し、ドバイ空港で乗り換えてロンドン空港に行くという流れだったのだが、トータルで12時間以上も飛行機に乗っているということで、途中、何度も機内食が出た。個人的に、機内食にあまり良いイメージをもっていないのだが、今回利用したエミレーツ航空の機内食は、結構美味しかった。ちなみに、前述のグァム旅行では、帰りの便で、CAから「チャーハン or ビーフン?」というあり得ない選択肢を提示されたのだが、そういうことは一度もなかった。
ただ、狭い機内席の中で、「寝て起きてご飯を食べて、寝て起きてご飯を食べて」を4回ほど繰り返しているうちに、小屋で飼われているブロイラーのような気持ちになり、ロンドンに着く頃には、海原雄山だったらまず口にしないようなゲンナリした鳥へと退化を遂げていた。
ロンドン空港に到着すると、出口のところで、旅行会社の箕輪さんという方が出迎えてくれた。洋画の吹き替え声優のような良い声をした、50代くらいのジェントルマンだった。
車でホテルまで向かう道中、箕輪さんから、ロンドン滞在中の諸注意や、ちょっとしたロンドントリビアなどを聞き、知識を補充した。
ホテルに着き、ようやくブロイラーから人間としての心を取り戻したのも束の間、なにやら箕輪さんとホテルの人が揉めていた。
ホテルの人が話す英語に耳を傾けると「え、予約されてねーけど?」と、なにやら不穏なことを言っているようだった。後でちゃんと話を聞いたところ、ホテル側の手違いで、19日からの予約のはずが20日からになっていたらしい。 とりあえず空いてる部屋を探してもらったところ、すんなり見つかったとのことだったので、部屋に行ってみると、これがまた信じられないくらい狭い部屋だった。
「え、これ一人部屋に無理矢理ダブルベッド押し込んだんじゃねーの?」と疑うほどの狭さで、その上、風呂場にバスタブすらなく、窓から見える景色は隣の家の壁だった。
なにか釈然としないまま荷物を床に置くと、すぐさま部屋に電話がかかってきた。箕輪さんだった。
「そっちの部屋、バスタブ無いですよね?今、ホテルの人に頼んで、部屋を替えてもらってます」
それを聞き、ホッと胸を撫で下ろしたが、新しい部屋がここと同じスペックなケースも全然考えられるので、できる限りハードルを下げて、新しい部屋に入った。
先程の部屋とはうって変わって、十分なスペースのある二人部屋だった。バスタブもちゃんとあるし、三枚の窓からはロンドン市内を見るとこができた。妻と顔を見合せ、今度こそ本当に安心した。
この時点で、ロンドンはまだ昼の2時過ぎ。移動の疲れは残っていたが、この後ずっとホテルにいるのも勿体なかったので、ホテル近辺を散策することにした。
外を歩くと、いかにもロンドンといった赤レンガ造りの建物が立ち並び、ただ歩いてるだけでも楽しかった。日本は広告がやたらと色んな場所にあるが、ロンドンにはそれが殆どなく、そこがまた上品な雰囲気を醸し出していた。ただ、広告や看板が少ないぶん、お目当ての店を探すのには苦労した。
立ち並んでいる店は、もちろん初めて見るものばかりだったが、なかには日本ではお馴染みの『ユニクロ』や『H&M』、『ZARA』なども普通にあった。特にZARAは至るところにあり、『シン・ゴジラ』で石原さとみ演じるカヨコが言った「ZARAはどこ?」という台詞は、それだけ海外でメジャーな店だからなのかな、と思ったりした。
あと、ロンドン市内を歩いていて感じたのは、こちらの人はあまり傘をささないということだ。予備知識としてある程度は知っていたが、「あ、本当にささないんだな」と、妙に感心した。特に男性に至っては、滞在中に1度も傘をさしている人を見なかった。
ロンドンというのは天候が変わりやすく、先程までザーザー雨が降っていたかと思えば、その3分後には雲間から日が差し込み、そのまま快晴になったりするので、「どうせすぐやむだろう」と思ってる人が多いのかもしれない。
後でツアコンの人に聞いたところ、出かけるときに雨が降っていても、傘を持たずに行く人もいるようだ。その辺は、日本人の感覚と大分異なる。
で、色々と辺りを歩いているうちにお腹が空いたので、適当な店で夕飯をとることにした。知らない土地で知らない店に入るのは緊張するものだが、国をまたぐとそれに輪をかけて緊張する。
ままよとばかりに、目に留まったステーキハウスに飛び込み、「We are two.」と店員に言って席に案内してもらった。
英語能力については、妻の方が高いため(というか、私のリスニング能力がダメ過ぎるのだが)、基本的に妻主導で話してもらう感じになったが、それでも店員が私に話しかけてくることもあるので、そこで聞き取れなかった場合は、捨てられた子犬のような目で妻を見つめて、助けを求めていた。
で、無事に注文が通り、運ばれてきたステーキが以下。
見ただけで胃もたれしそうなほどのステーキと、サイドメニューのマッシュポテト、マッシュルームのガーリック炒めである。
正直、ステーキとマッシュルームに関してはイマイチだった。特にマッシュルームは、ガーリックの味がしない上に、これをサンマの代わりとして殿様に出そうものなら、家臣に打ち首にされかねないほどの油の量だった。
一応、「Very good.」と言って店を出たが、かなり胃にヘビーだったようで、夜は特に間食もせず、そのまま死んだように寝た。
初日終了。
ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~
前回の『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』からの続き。
※今回のブログ中のネタは、むらかみあつしさんのブログより引用させて頂きました
北海道のラジオが私の深夜ラジオの原点だったが、そこから徐々に全国区のラジオも聴くようになった。
当時は、地元の新潟本局(1116kHz)でも一部ネットしていたということで、ニッポン放送、特にオールナイトニッポン(以下、ANN)を好んで聴いていた。ANNについても寄り道話は色々とあるのだが、今回はコサキンがメインなので、できるだけ割愛して話を進める。
ANNは、火曜日の『松村邦弘のANN』を聴いたのが最初で、そこから他の曜日もチェックするようになった。一応全曜日を聴いたと思うが、水曜日が自分的にあまりハマらなかったらしく、「他に何か面白い番組やってないかなー」で見つけたのが『水曜UP'S コサキンDEワァオ!』だった。
当時の私は『コサキン』を知らなかった。
関根(勤)さんと小堺(一機)さんは、テレビを通してそれぞれ知っていたが、二人がコンビとして活動してたことも知らなければ、お笑い芸人としての二人の経歴も全く知らなかった。その他にも、小堺さんが無駄に良い体をしていることや、関根さんが家で奥さんから冷遇されていること、関根さんが高熱を出すと夢の中に野口五郎の連絡先を知りたい男が現れること、里見浩太郎さんが、デビュー当時エリザベス里見と言う名でセクシービデオ「水着の中の白乳房」を出ていたことなどなど、挙げればきりがないほど知らないことだらけだった(最後のは完全に嘘だが)。
そんな何も知らない状態で放送を聴いたわけだが、フリートークに登場する人物から、ネタに使われる芸能人の名前、「オギオギ」といった謎の擬音など、意味の分かる言葉を探す方が難しいほど意味の分からない世界だった。それでも聴き続けたのは、きっと何か感じるものがあったのだろう。最初、「3ヶ月ぐらい聴けば、言ってることの意味が分かるようになるのかな」と思っていたが、3ヶ月聴いた結果、「意味の分からないことを言って笑っている」ということが分かった。
「晴郎のうなじにスクランブル・・・スティーガンセブール主演のセルビデオ『グラマーマン・愛と青春のみみずばれ』にゲストとして出ている、鬼裸ちんちろうこと、水野晴郎のうなじには何らかの図形が描かれているがWOWOWのようなスクランブルがかかっているため、はっきりわからない。解除するには別売りのデコーダーが必要。 つまり本当の事を知るには多少の出費の覚悟がいるということ。」というネタの意味を分かれという方が酷である。
で、なんだかんだ聴き続けていくうちに、コサキンの魅力が少しずつ分かり始め、1年も経った頃には、すっかりコサキンの"意味ねぇ~世界"にどっぷりハマっていた。で、ほぼ時期を同じくして、並びでやっていた『伊集院光のUP'S 深夜の馬鹿力』と『火曜UP'S 爆笑問題カウボーイ』も聴き始めるのだが、最初の頃はずっとコサキンに夢中だった。
このへんから投稿の話。
記憶はおぼろげだが、番組にネタを送り出したのは、聴き始めてから1年以上経ってからだったと思う。今まで地方のラジオ局にしか出したことがなかったので、「ネット局も多いだろうし、採用されないだろうなぁ」と思っていたが、その予感は的中し、最初の頃は全く採用されなかった。それでも根気強く毎週毎週出し続けた結果、2000年の2月9日の『お葉書列島』のコーナーに、
嫌な力士ベスト3
3位「仮面をつけている」
2位「立ち合いの際に相手の力士を見て顔を赤らめる」
1位「自分のまわしをわざとゆるめる」
というネタで採用された。
読まれた瞬間、「え!?え!?今の俺?」と、戸惑いと嬉しさが入り混じったような感情が湧き上がり、ドキドキと震えが止まらなかった。信じられなくて、同録したカセットテープを、それこそ本当に擦り切れるくらい繰り返し聴いた。プリプリの『Diamond』の歌詞にある「いくつも恋して順序も覚えてKISSも上手くなったけど、初めて電話するときにはいつも震える」と同じ感じのやつかな、と思ったが、おそらく全く違う。
1度採用されると、何となくコツが分かってくるもので、この初採用を境に、ちょこちょこ読まれるようになった。最初の頃は、隔週でお題が替わる『お葉書列島』というコーナーをメインにネタを出していたが、そのうち他の色んなコーナーにも出すようになった。人間とは欲深いもので、読まれたら読まれたで、今度は「あのコーナーで読まれたい!」と、さらなる欲が出てくるのである。
数あるコーナーの中で、読まれたいのにハードルが高いコーナーの代表格だったのが、『CD大作戦』だった。このコーナーは、簡単に説明すると、自分でお題を考えて、CDや効果音、番組内でのコメントを組み合わせて面白い作品を作るというコーナーである。CD音源を使って作品を作るという意味では、爆笑問題カーボーイの『CD田中』に近いかもしれない(JUNKリスナーしかこのブログを読んでいない前提で書いている)。
このコーナーで採用されると、最初に関根さんから『洗礼』といって、ラジオネーム(の略称)を叫んでもらえるので(渡辺淳一だったら「なべじゅん!」、中島光一だったら「なかこう!」みたいな感じで)、そういった意味でも読まれたいコーナーだった。
このコーナー、なぜハードルが高いかというと、まず根本的な問題として、書き方がよく分からないのである。「このCDのこの部分と、番組のこのコメントを組み合わせて、こんな感じで紹介して下さい~」みたいな説明をハガキに書くんだろうな、と漠然と分かってはいたのだが、いまだに何が正解なのか分からない。おそらく、他の投稿者の方も「こんな感じでいいのかな?」と手探りで書いていたと思われる。
次に、手持ちのCD音源が少ないということだ。当時、インターネットがギリギリ我が家に開通していたので、CDの歌詞についてはネットでどうにか調べることができた。しかし、当時はまだ、iTunesはもちろん、Youtubeもなかったので、ネットで音楽を実際に視聴することなどできなかったのだ。「歌詞だけ分かればいいのでは?」と思われる方もいるだろうが、歌詞が分かっても、それがどういうトーンで歌われているのか実際に聞いてみないことには、ネタにしにくいのだ。例えば、すごく早口で歌っていたり、天龍源一郎のような滑舌だったりした場合は、歌詞が聞き取れなくてアウトなのである。
結果、実際に自分が所持しているCDからネタを作ることが多かった。それなりにCDを所持している方だが、それでも限界があったため、親父のCDをよく漁って使わせてもらった。『宇津井健さんと出会った渚ゆう子さんの感想ベスト3』などは、完全の親父のCDがなければ作れなかった作品である(ちなみに、このときの1位は、渚ゆう子『二人は大阪』の「あ~、ここは戎橋」という部分を使用)。
色々と試行錯誤を繰り返し、初採用から数か月後、CD大作戦でも採用を頂いた。初めて「ふじきく!」と洗礼を受けたときは本当に嬉しかった。
ちなみに、CD大作戦は前半戦と後半戦で分かれており、前半戦は比較的ライトなネタ、後半戦はぶっ飛んだコアなネタという風に棲み分けがされていたのだが、後半戦に採用されるまでにも、それから数か月の期間を要した。時間をかけて、一歩一歩、着実に馬鹿への階段を上って(もしくは下って)いる実感があった。
今でも深夜ラジオへの投稿は続けているが、自分にとっての、いわゆる大喜利的なネタの原点は、コサキンだと思っている。クソ真面目にくだらない文章を書いて、コサキンの二人から「ばっかでー」と笑われることが何よりも嬉しかった学生時代。あの頃がなかったら、今の自分はなかっただろうな、と思う。
書きたいことはまだ色々あるのだが、それはまた次の機会に。
余談。
久しぶりにCD大作戦を聴いたら軽く涙が出た
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1887383
次回、『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編~』へ続く(かもしれない)。
ラジオ投稿記~STVラジオ編~
「いつか何かのタイミングで、ラジオ投稿について書き残しておきたい」と常々思っていたので、この場を借りて自分のラジオ歴を振り返ってみたいと思う。
初めて聴いた深夜ラジオ番組は、今でもよく覚えている。あれは、まだ私が中学2年生の頃。夜中、チンチンをいじる傍らでラジオのダイヤルをいじっていたところ、雑音混じりに聴こえてきたのが、『船守さちこのスーパーランキング』だった。深夜ラジオのゴールデンタイムといわれる午前1時~3時と比べると、まだ浅い午後10時という時間帯だったが、自分の中では、これが深夜ラジオとの出会いで、ここから深夜ラジオを聴く習慣ができた。
この番組は、STVラジオで放送されていた。STVラジオといえば、日本国民の9割がご存じだと思うので、今更説明するまでもないのだが、残り1割の方のために説明しておくと、北海道のAMラジオ局である。2012年に開局50周年を迎え、今も変わらず道民に愛され続けている。残念なことに私は道民ではないので、遠く離れた新潟の片田舎で頑張って聴いていた。
「え、北海道のラジオなのに新潟で聴こえるの?」と疑問を持たれる方もいるだろうが、テツandトモの「夜になると遠方のラジオ局の放送が入りやすくなるのはなんでだろ~」というおなじみのネタにもあるように(無い)、深夜というのはなぜか電波の入りが良くなるのである。ラジオを聴くことでしか寂しさを埋めることのできない不器用な人間に対する、ラジオの神様の粋な計らいなのかもしれない。ちなみに、『深夜 ラジオ 電波 入る』辺りの単語でググると本当の答えが出てくるので、興味ある方は調べてみるといい。
とはいえ、radikoプレミアムのようなクリアな音声が新潟で聴けるわけもなく、雑音と戦う日々だった。radikoでしかラジオを聴いたことがない現代ラジオっ子には想像できないかもしれないが、ラジオのダイヤルを回してチューニングするというのは、非常に繊細な操作が要求される。『Tシャツの上から乳首の位置当てゲーム』など比較にならないほど当たり判定が厳しく、ダイヤルが0.5mmずれるだけで砂嵐に包まれて迷子になるということが日常茶飯事だった。
ちなみに、大手ラジオ局であるところのニッポン放送やTBSラジオも、同じように雑音がひどかった。特にTBSラジオは、まともに聴ける状態ではなかったので、代わりにHBCラジオ(これも北海道のラジオ局)経由で聴いていた。そういう意味でも、北海道のラジオ局には随分とお世話になった。
で、北海道のラジオを聴いているうちに投稿を始めるわけだが、始めた理由は"なんとなく"だった。「出したら本当に読まれるのかな?」くらいの、ちょっとした興味本位だった。今ハガキ職人をやってる方も、最初はそんな軽い感じで始めたのではないだろうか。
初めて投稿したのは、曜日替わりパーソナリティの『アタックヤング』という番組で、もちろんこれもSTVラジオの番組だ。調べたところ、地方制作局の深夜放送では最古参の番組らしい(残念ながら、2016年3月に、45年6ヶ月の歴史に幕を閉じた)。
当時のパーソナリティは、自分の記憶とネットを頼りに調べた限り、以下の方々。
土日は必ず聴いており、火水金はたまに。月木は、確か裏番組を聴いていたので、ほとんど聴いたことがない。
月曜:千秋幸雄
火曜:山崎まさよし
水曜:神原智己
木曜:大植三奈江
金曜:KAN
土曜:明石英一郎
日曜:福永俊介
この中で最初に投稿したのは、確か福永俊介さんがパーソナリティを務める日曜日だったと思う。ただ、明石英一郎さんの曜日にも同時期に投稿を始めたので、どちらが先だったかは微妙に記憶が怪しい。どちらの番組もネタコーナーが豊富で、投稿しがいがあった。ちなみに、お二人ともSTVラジオのアナウンサーではあるが、軽快なトークから繰り出される深夜ならではのマニアックなネタやヒドい下ネタは、芸人ラジオ並にお笑い寄りの内容だった。
初めてネタが読まれたのも福永さんの番組だった。生まれて初めての採用で喜びも大きかったこともあり、ネタの内容は今でもハッキリと覚えている。『嫌な定食屋:トン汁を頼むと、厨房から豚の悲鳴が聞こえてくる』というものだった。今こうして見返すとベタベタなネタだが、それでも読まれたときは本当に嬉しかった。読まれた瞬間は、一瞬何が起こったのか分からないほどドキドキして、しばらく震えが止まらなかった。これはラジオで読まれた人にしか分からない感覚だと思うが、自分のネタ読まれた瞬間のパーソナリティと繋がった感じは、言葉では説明できないほどの快感を覚える。この快感から抜け出せなくなった中毒者が、投稿沼へと落ちていることになるのである。余談だが、このときハガキの余白にブタの絵を描いて採用されたので、それにあやかって、しばらくネタには必ず絵を描いて投稿していた。
この福永さんの番組と並んで熱心に投稿していたのが、先にも述べた明石さんの番組だった。アタックヤングは聴き始めるのが遅かったため、リスナーになって早々に最終回を迎えてしまったのだが、ほどなくして『明石英一郎のビビデバビデラジオ』という番組が始まった。この番組が、投稿者としての私の原点になった番組である。
番組の内容はもちろんのこと、パーソナリティである明石英一郎アナが大好きだった。私のペンネームである藤井菊一郎の『一郎』は、この明石さんの名前から取っている。明石さんの人柄を一言で説明するのは難しいが、『いつもバカなことを言ってるけど、子供と真摯に向き合って意見を言ってくれる大人』といったところだろうか。12月頃に受験生からハガキが来ると、「お前、受験生なんだから、こんな番組聴いてないで勉強しろよ!」と笑いながらも本気で心配してくれていたのが思い出される。
こんな明石さんがパーソナリティを務める番組だが、番組の流れとしては、前半がフリートーク(&ふつおた)で後半が主にネタコーナーだった。当時の藤井少年は、メモ帳にフリートークの内容や読まれたネタ、番組中にかかった曲に至るまで全てをメモしていた。知らない単語が出てくると、必ず後でそれを調べていた。そのためか、古い特撮物に変に詳しくなった。また、「なぜ採用されなかったのか?」ということを自分なりに分析して書きとめていたりもしたが、「その熱量の1%でも勉強に向けていれば、もっと良い大学に入れたんだろうな」と今になって思う。多分、実家に帰ればあのメモ帳は出てくると思うが、黒歴史になっていない程度に笑って読めるものになっていると信じたい。
当時は、大喜利的なネタというよりは、身の回りの面白かった出来事などを、「こんなことありました」と報告するようなネタを多く書いていた。逆に、今は身の回りのことを殆ど書かなくなったので(投稿する番組のテイストが違うというのもあるが)、当時の自分が書いてたようなネタを今同じように書けるかというと微妙なところだ。投稿者あるあるの一つとして、「身の回りの面白い体験談が書けない」というものがあるが、「よかった探し」ならぬ「面白かった探し」は、きっと若い頃の方が得意なんだろうな、と思う。
今は当時のような熱量はないが、面白かった探しについては、おじいちゃんになっても続けていきたいと思っている。
余談。
そういえば、明石さんの新番組が今年の4月から始まったと聞いているのだが、まだ全然聴けていない。。。
きっと、明石さんに「貴様!それでも軍人か!」と怒られるだろうなぁ。
次回、『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』へ続く(かもしれない)。
結婚式
漫画などで描かれる結婚式前日というのは、大体何かしらのドラマがあるものだが、実際のところは、そんなドラマ的な要素など微塵もなく、まるで世界が崩壊したかのように静かで、ゆったりとした時間だけが只々流れていた。あまりに暇だったので、「こんなことなら仕事に行っても大丈夫だったのではないか」と、妖怪・社畜小僧が定期的に私の耳元で囁いてきたが、それを手で振り払ったりしながら、寝るまでの時間を妻と二人でのんびりと過ごした。
昼頃、「本当に世界が終わったのではないか」と不安になり、近所のマツキヨに三本入りのL字カミソリを買いに行ったところ、いつもと変わらず普通に営業してたので、世界が終わってないことを確認することができ、深い安堵を覚えた。
結婚式当日は、5時半起きということで、最低でも7時間は寝ておきたかったので、その日の夜は、謎の男(福山雅治)が出ている「るろうに剣心」も観ずに、21時過ぎにベッドに入った。
我が家は寝るときに、妻が『深夜の馬鹿力』のバックナンバーを流すのだが、その日は、妻が「今日は、これをかけよう!」と、事前に流す放送を決めていたような口ぶりでiPodを再生した。そして聞こえてきたのは、1995年11月6日の、伊集院さんが結婚式を迎える前夜の放送だった。この放送を聞くまで、伊集院さんの誕生日と結婚記念日が同じことを完全に忘れていた。「結婚式の前夜に、結婚式前夜の放送を聞くなんてオツなものだな」などと思いながら、最終的に2時間以上後に眠りについた(早すぎて眠れないんだもん)。
5時半。
カムチャッカの若者がキリンの夢を見たり見てなかったりする頃、スマホのアラームが鳴り、目が覚めた。前の日に商店街で購入した白Tシャツに白靴下を履き、いつもより厚着して出かける。土曜の早朝だというのに、上りの駅のホームには、死んだ目をしたスーツ姿のサラリーマンが、現実と夢の狭間で揺れながら電車を待っていた。そのまま駅のホームまで揺れて落ちないことを祈りながら、私と妻は下りの電車に乗り込んだ。
6時50分。
式場に着くと、3カ月以上に渡って私たちのことを担当してくれた會澤さんが笑顔で私たちを出迎えてくれた。後で話を聞いたところ、會澤さんは4時起きだったらしい。ご苦労様です。
その後、すぐに新郎新婦の控室まで案内され、妻はそのままヘアメイクと着替えに入った。私もしばらくしたら、着替えをして、なすがままに化粧をされた。
ほどなくして、會澤さんが控室に祝電を持ってきてくれた。誰が送ってくれているのかは大体把握はしていたつもりだったが、地元の友人一同が送ってくれていたのは知らなかったので、驚きの嬉しさのハイブリッドの感情が湧きあがった。
このとき、會澤さんから、祝電について、名前の読み方だったり、読む順番の指定をどうするか、ということを聞かれたのだが、「えーと、すいません、この方は何とお読みすればいいでしょうか?」と、會澤さんから渡された祝電の一行目を見ると、『小島一慶です!ロン!』と書かれており、思わず苦笑いがこぼれた。
「あのですね、送って頂いた方は、小島一慶という名前ではないです」と、上に書かれたペンネームの方が送り手ということを伝えた。「元はTBSのアナウンサーで、テレ朝に移籍後に女性問題を起こして、そのままテレビから姿を消えてしまったので、若い人で知ってる人はなかなかいないと思うんですけど、この方、麻雀が趣味でしてね」といった説明は、もちろん一切せずに、小島一慶という漢字にルビを振った。おそらく、後にも先にも無い作業だと思う。
(ちなみに、司会の方が元・TBSの女子アナで、元々は伊集院リスナーだったので、それも相まって、読まれているときはクソ袋ような感じだったらしい)
そんなことをしているうちに、あれよあれよという間に時間が過ぎ、撮影部隊の3人(写真撮影、ビデオ撮影、エンドロール撮影)の方と顔を合わせ、10年後の新婦へのメッセージを撮ったり、チャペルでカメラ撮影などを行った。ちなみに、カメラ撮影は式の最中も絶えず行われていたため、新婦側の親族から、「あんたら、人形みたいやね」と言われたりもした。確かに、立って座ってお辞儀して写真を撮られて、ということを延々繰り返していたので、限りなくマリオネットに近かったと思われる。
で、新婦の両親も交えた最終リハーサルも終わり、いよいよ披露宴前の結婚式(人前式)本番。
チャペルの扉の前で少し緊張して開式を待ちながら、スタッフの人のカウントダウンに耳を傾けた。「3、2、1」で扉が開くと、目の前には、芸能報道陣ばりにスマホのカメラを構えた参列者の方々。「え、人前式ってこんなに堂々とカメラ向けていいもんだっけ?」といささか疑問を覚えつつも、一歩一歩、ゆっくりとバージンロードの上を歩いた。一番前の列で立ち止まり、振り返って皆の方に顔を向けた。その後、花嫁と父親が入場するのだが、この時点で妻の友人の何人かは、涙腺のパッキンが壊れたようで、フライング涙を浮かべていたらしい。保護者(父親)目線で見ていたとのこと。
その後、妻と二人で腕を組んで壇上に上がった。このとき、もう割と緊張は解けていたので、一人一人の顔をゆっくり眺めていたところ、友人の一人がいないことに気付いた。それとほぼ同じタイミングで、扉がガチャと開き、「すいません」と言った表情で小走りに席につく友人。「弱気なダスティン・ホフマンかよ」という突っ込みを心の中で入れた。
その後、プログラムは誓いの言葉へと進み、私と妻の共通の友人(リスナー友達)から、事前に自分たちで考えた誓いの言葉を読んでもらった。その誓いの言葉が以下である。
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(立会人)
(新郎名前)さん。
あなたは(新婦名前)さんを一生涯愛し、どんなときも守り抜き、幸せにすることを誓いますか?
また、新婦の大好物のかき氷を通年で一緒に食べに行くことを誓いますか?
(立会人)
(新婦名前)さん。
あなたは(新郎名前)さんを一生涯愛し、明るく笑顔溢れる家庭を築いていくことを誓いますか?
また、二人でTBSの深夜ラジオを聴き続けることを誓いますか?
(立会人)
こうして皆様の前で誓い、祝福を受けた幸せを忘れずに、生涯二人で力を合わせ温かな家庭を築き、記念日には美味しいものを食べに行くことを誓いますか?
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ちょいちょい笑いが起こり、リラックスした雰囲気に包まれたので良かった。
その後、プログラムは、指輪交換、誓いのキス、結婚証明書の記入、キャンドルリレー、新郎新婦退場、と、滞りなく進んだ。
その後、ガーデンに出て写真撮影からの披露宴が開始されたが、
内容については、結婚式ではお約束の、
・フラワーシャワーのときに、フラワーをオーバースローで投げられる
・ケーキカットで、新婦が新郎にケーキを食べさせてあげるときに、量が多すぎてこぼれる
・余興のカラオケで、新婦側の友人が歌っている最中に感極まって泣く
・カメラ撮影のときに「チューしろ、チューしろ!」と囃し立てられる
・新郎と新郎の父親が肩を組む
・新婦が、両親への手紙のときに、泣きそうになって言葉を詰まらす
などなど、結婚式ならではの数々のベタを見ることができた。
以前、マキタスポーツ氏がインタビューで、
「自分や自分の家族という作品に対しては、必要なことなら絶対にやります。そういうベタなことって大事だと思うんですよね。 物事を一歩引いてみるメタが行き過ぎて、地球の裏側のことを思いやってみたりするじゃないですか?ああいうのは嘘っぽいですから、もっと「身近な人を幸せにするべき」だと思います。 」と語っていた。
他にも誰かが、「結婚式ではとにかくベタなことを沢山やった方がいい」と言っていたが、それは本当にそうだと思った。身近な人を幸せにできるベタなら、どんどんやった方がいいのだろうな、と、今回の結婚式を通して、改めて考えさせられた気がする。
人生は、節目節目に自分のことを見つめ直す時期があると思う。例えば、就職活動。これは、あくまで自分自身に対して色々と考えるだけであるが、結婚式というのは、自分と周囲の人を見つめ直して、「自分はこれだけの人たちに支えられているんだな」と考えるための時期なのではないかな、という気がした。
映画版の「空飛ぶモンティ・パイソン」のラストに、それまでオムニバス形式で色んな物語に出演していたキャラクターたちが、パーティ会場に一堂に会するシーンがあるのだが、披露宴会場の階段の上から参列者の方々を見降ろしたときに、そのシーンが脳裏に甦ってきた。今回、友人グループの中にも、地元の学校の幼馴染みだったり、ラジオのリスナー友達だったり、ご近所で昔から仲良くしてもらっていた人など、それぞれ違うコミュニティがあり、その他にも、親戚、職場の先輩方など、様々なグループがあった。そのグループの間には何の関連性もないのに、こうやって一つの会場に集まって頂いたことに、言葉に出来ないほどの感謝の念を覚えた。
そんなこともあり、式中に、何回か感極まって泣きそうになったこともあった。泣かなかったけど。
と、書きたいことはまだまだあるのだけれど、とにかく、「結婚式はしないよりも しておいたほうがいいわ (by 俺高千里)」という気持ちを込めて、締めの挨拶とさせて頂きます。
来て下さった方、本当に本当にありがとうございました。
以下、結婚式中に流した曲リスト
進行内容 | CDタイトル | アーティスト名 | 曲名 | 備考欄 |
フラワーシャワー | colour me pop | Flipper's Guitar | Coffee-Milk Crazy/コーヒーミルク・クレイジー | |
ブーケトス | EARTH | SEKAI NO OWARI | インスタントラジオ | |
ブロッコリープルズ | ORANGE SUNSHINE | JUDY AND MARY | RADIO | |
新郎新婦入場1 | 少女革命ウテナ 麗人ニルヴァーナ来駕 〜ボクのアンドロギュヌス〜 | 光宗新吉 | 麗人来駕・序曲(SEGA SATURN opening inst) | 0.09秒でドアオープン |
乾杯 | TRIPLE H「HHH」 | トリプルH | ROCK OVER JAPAN | |
プロフィール紹介 | 交響組曲 「ドラゴンクエストV」 天空の花嫁 | すぎやまこういち | 王宮のトランペット | |
ケーキ入刀 | オリオンをなぞる | UNISON SQUARE GARDEN | オリオンをなぞる | 1.58秒から |
テーブルラウンド | 「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」オリジナル・サウンドトラック~アドゥレセンス・ラッシュ | 光宗信吉 他 | 輪舞-revolution~アドゥレセンス・ラッシュ(奥井雅美) | |
テーブルラウンド | 「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」オリジナル・サウンドトラック~アドゥレセンス・ラッシュ | 光宗信吉 他 | Akio円舞曲~ビデオな記憶 | |
テーブルラウンド | 「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」オリジナル・サウンドトラック~アドゥレセンス・ラッシュ | 光宗信吉 他 | フィアンセになりたい(シンフォニック・インストゥルメント) | |
メイン演出 | Flowerwall | 米津玄師 | Flowerwall | 3.36秒大サビから |
お色直し中座(新婦) | アンジェリーク~恋はPUSH&PUSH! | 葛生千夏 | THE GATEWAY | |
お色直し中座(新郎) | おもちゃやめぐり | ポアロ | Dreaming | |
新郎新婦入場2 | 少女革命ウテナ 麗人ニルヴァーナ来駕 〜ボクのアンドロギュヌス〜 | 光宗信吉 | 舞踏のエロス | |
お手紙 | 交響組曲 「ドラゴンクエストV」 天空の花嫁 | すぎやまこういち | 愛の旋律 | |
花束・記念品贈呈 | 少女革命ウテナ 絶対進化革命前夜 | Keita Egusa | 光さす庭 | |
新郎新婦退場 | アンジェリーク~恋はPUSH&PUSH! | 葛生千夏/進藤昌子 | 優しい愛の歌 Sweet Love Ballade (Vocal Version) |
進行内容 | CDタイトル | アーティスト名 | 曲名 | 備考欄 |
歓談 | LE MONDE FABULEUX DES YAMASUKI | YAMASUKI | AISERE I LOVE YOU | |
歓談 | LE MONDE FABULEUX DES YAMASUKI | YAMASUKI | YAMASUKI(CLUB MIX) | |
歓談 | so-ma-to | 変死隊 | so-ma-to(おもしろfaceMIX) | |
歓談 | DRAGON | 電気GROOVE | 虹 | |
歓談 | ARAKAWA魂 | ARAKAWA RAP BROTERS | ARAKAWA RAP BROTERSのテーマ〜O.V.E OVERFROW ERROR〜 | |
歓談 | CELESTIA | まい | モノクロの輪舞曲 | |
歓談 | hevenly | L'Arc〜en〜Ciel | C'est La Vie | |
歓談 | TRUE | L'Arc〜en〜Ciel | I Wish | |
歓談 | LIFE | 小沢健二 | 愛し愛されて生きるのさ | |
歓談 | LIFE | 小沢健二 | 僕らが旅に出る理由 | |
歓談 | さくら | サザンオールスターズ | 素敵な夢を叶えましょう | |
歓談 | 欲望図鑑 | 及川光博 | バラ色の人生 | |
歓談 | colour me pop | Flipper's Guitar | Exotic Lollipop (and other red roses)/奇妙なロリポップ | |
歓談 | ファイナルファンタジーVII リユニオントラックス | 植松伸夫 | ゴールドソーサー | |
歓談 | ファイナルファンタジーVII リユニオントラックス | 植松伸夫 | エアリスのテーマ (オーケストラ・アレンジヴァージョン) |
少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録
中学3年の夏。
夏休みも半ばに差し掛かった頃、クラスメイトの坪谷君から、家に電話がかかってきた。「暇だったら映画を観にいかない?」というお誘いだった。クーラーの効いた部屋でゴロゴロしながら、甘勃起したチンチンをお腹にぺチンぺチンと弾く仕事で忙しかった私は、「暇ではないけど」と心の中で前置きした上で、何の映画を観に行くのか聞くと、「劇場版のアキハバラ電脳組」という答えが返ってきた。
当時の私は、坪谷君から定期的におススメのアニメを借りては観る、ということを繰り返しており、前述のアキハバラ電脳組も坪谷君から借りたうちの1本だった。いつも坪谷君は、アニメのビデオを怪しげな風呂敷に包んで鞄に忍ばせ、それをクラスメイトが見守る教室の中で私に手渡してくるので、事情を知らない女子生徒からは「あの包み・・何?」と訝しげな目で見られていたのをよく覚えている。
で、正直、アキハバラ電脳組はたいして好きではなかった(というより、ちゃんと観てなかった)のだが、子供向けではないアニメ映画を劇場で観たことがなかったので、どんな感じなのか興味があったのと、チンチンを弾く仕事もちょうど一段落ついたということもあり、「行く!」と2つ返事でOKし、共通の友人である鶴巻君も誘って3人で映画を観に行くことになった。このとき同時上映だったのが、『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』である。
なぜこんな話をするかというと、先日、妻(少女革命ウテナ好き)が「結婚式でウテナの曲を使いたい!」と言ったことがキッカケで、何となく「ウテナを観返したい」みたいな流れになった。で、その数日後に妻が劇場版のウテナをTSUTAYAから借りてきたので(テレビ版も含めて)、せっかくだから、二人で一緒に観よう、ということになり、今回、十数年ぶりに劇場版のウテナを観たのである。
(参考までに、Wikipediaに書かれている、『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』のあらすじを、以下に記す)
全寮制の名門学校・鳳学園に転校してきた天上ウテナは、「薔薇の花嫁」と呼ばれる謎の美少女・姫宮アンシーに出会い、生徒達との決闘ゲームに巻き込まれる。ウテナは徐々にアンシーと親しくなるが、その中でアンシーに隠された秘密を知り、彼女を連れて「外の世界」への脱出を試みようとする。
中学3年の私がどういう感想を持ったのか一生懸命思い出してみたのだが、残念なことに、思い出せるのは「全くわけが分からない」の一点のみだった。このときは、「テレビ版を観てないから設定とか全く知らないし、仕方ないよなぁ」という理屈で自分を無理やり納得させたような気がする(まぁ、実際問題、テレビ版と設定も若干違うので、テレビ版を観ていたら理解できるかというと、そうでもない)。ネタバレになるので、詳しい内容については省くが、「外の世界」への脱出を試みようとする部分の描写は、中学生の私の脳の理解力を遥かに上回るわけの分からなさだった。ただ、お目当てだったアキハバラ電脳組よりは記憶に残っているので、それなりには面白かったのだと思われる。
で、2015年の今、改めて観たところ、「全くわけが分からない」という感想だった。ただ、中学の頃と違うのは、その「わけの分からなさ」加減が心地良いというか、言葉で伝わらない黙示的な何かを、アバンギャルドな表現を用いることによって極めて感覚的に伝えようとしているんだな、ということを理解した上で、それが楽しめるレベルまで消化することができた(ような気がする)ことである。まぁ、この監督の作品を後に観ているので(『輪るピングドラム』などなど)、どういう作風の人か知ったというのも大きいのだろうけど、「もう1回ぐらい観てもいいかな」と思えるぐらいには面白かった。
この映画を観る前に「ミッチー(及川光博)の声だけ浮いてるんだよね」という話を聞いて、及川光博がゲスト声優として出演していた事実を、このとき初めて知った。エンディングテーマに及川光博の曲が使われていたことも同時に知った。言われてみると、確かに何かひっかかる声の持ち主が出ていたような記憶がボンヤリとあったのだが、記憶の糸を辿ると、私はその声優のことを勝手に中尾隆聖だと思い込んでいたらしい。この辺りの、ちょっとした記憶違いというか、空脳感が面白かった。自分が中高生の頃に観た、中途半端に記憶に残ってる映画を観返すのは、色んな記憶の扉を開ける鍵になるのかもしれない。
あと、もう一つ感想として、ウテナでは奥井雅美の曲がいくつか使われているのだが、奥井雅美の『音楽をアニメの世界観に合わせる力』のすごさを改めて感じた。『輪舞 -revolution』など、曲自体はアニソンとして前々からよく知っているのだが、映像と合わさると、ウテナの世界観とマッチするなぁ、と。私は専門家ではないので、難しいことはよく分からないが、歌詞ではなくメロディを世界観に合わせる技術は、本当に職人芸の領域だと思う。ウテナもそうだが、アニメ『PandoraHearts』のエンディングテーマ(これは提供曲だけど)を聴いたときにも同じようなことを感じたのを思い出した。
最後に余談。
この1年後に、同じ面子で『ブギーポップは笑わない』の実写映画を観に行ったのだが、観に行った事実だけ覚えていて、そのときの記憶が全くと言っていいほど無い。いや、もしかしたら、実写化なんてされていないのかもしれない。きっとそうだ。
結婚
中学3年生の頃だっただろうか。「もうすぐ卒業」というタイミングで、25歳の自分に対して手紙を書くという授業があった。卒業式では定番の、タイムカプセルに入れて埋めるやつである。最初は、「面倒くさい」と思っていたのだが、書き出してみると、これが意外に楽しく、途中からは割とノリノリで書いた記憶がある。まぁ、楽しかった、ということは、少なからず未来に対して夢と希望があったのかもしれない。
で、光陰矢のごとし、会陰指でなぞられるのごとし、とばかりに、ちょっと瞬きをしている間に25歳は通り過ぎてしまったのだが、未だに学校側から参集がかかっていないので、あのタイムカプセルがどうなったのかは分からない。ただ、書いた内容については、20年近く経った今でも、おぼろげながら覚えている。
「どうせアナタのことだから、まだ結婚していないと思いますが_」
そんな一文を書いた記憶だけはハッキリと残っている。自分が自分に対して言うのもなんだが、「小生意気なやつだな」と思う。人一倍臆病なくせに、表面上では人一倍冷静を装い、世間を斜に構えて見ることで「俺は、お前らとは違うんだからな」といった空気を内から醸し出していた中学時代。そして、そういった行為が一番子供っぽいと気付いてなかった中学時代。「触るものみな傷つけた」とは真逆に、自分が傷つくのを恐れて、周りに触れるのを過度に避けていた中学時代。そんな中学時代のことを、笑いながら懐かしむことができる程度には大人になってきたかな、と最近は感じている。中学時代の自分は、今の自分を見て、どう思うのだろうか。「さえないオッサン」が濃厚かな。
そんな臆病中学生だった自分が、その十数年後に結婚するのだから、人生というのは分からないものである。
「人生楽ありゃ苦もあるさ」、とはよく言ったもので、結婚に至るまで色々と大変なことがあった。正直、ここに書けない内容のことも沢山ある。そんな中で、ようやく最初の山を一つ乗り越えたのかな、と思っている。これから、まだ未知の山が次々と自分の前に立ちはだかると思うが、そのときは、三浦雄一郎ばりのバイタリティを持って挑んでいきたい。そう、ゴマの力で(違)。
あと、最後に、
「おめでとう」のメッセージを下さった皆様、本当に本当にありがとうございました。
以下、余談。
今まで一人で国を治めていた頃は、『家に帰ってきたら手を洗う』といった、けったいな文化などなかったのだが、併合と同時に『帰宅時手洗い法』が発令されたため、慣れない異国文化に戸惑いつつも、最近は、帰宅したらすぐに手を洗うようにしている。妻から言わせると、「『ほら、俺、ちゃんと手を洗ったよ!』みたいな顔して、なんか小学生みたい」とのことなので、とりあえず、小学生みたいな顔をしないようにするのが当面の目標。