ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力編(2)~

『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』
『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』
『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ(1)(2)(3)(4)~』
『ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力(1)~』

からの続き。

馬鹿力を聴くのが習慣になるまでは長かったが、習慣になってから投稿するまでに時間はかからなかった。

馬鹿力の投稿に関する記憶を呼び起こしてみたところ、思い出せる範囲で最も古かった記憶が第214回の放送だった。年月日にすると99年の11月15日なので、番組を聴き始めてから約3か月後ということになる(実際には、もっと前から出していたのかもしれないが)。
この頃は、馬鹿力と同じ並びでやっていた『コサキンdeワァオ!』や『爆笑問題カーボーイ』はもちろん、文化放送や地方のラジオ局にも投稿をしていたので、馬鹿力は、あくまで、数あるネタ投稿ラジオの中の1つという位置付けだった。

ここで、当時の自分について少し話しておく。

当時、私は高校1年生で、入学早々からクラスにあまり馴染めず、数少ないホンの一握りのオタク友達以外には全く心を開かない子供だった。そして、その妙なプライドの高さゆえ、人からイジられることを極端に嫌い、できる限り注目を浴びないよう、息を殺すようにクラスに身を置いていた。結果、クラスの中では本当に存在感がなく、浮いた存在になっていた。「浮いた存在」という言い方は、ある意味では「周囲から奇異の目を向けられる存在」といった可能性も暗に含んでいるが、私の場合、そんなことは一切なく、例えば「もっとも存在感のない県って何県?」というアンケートについて考えてみたときに、「島根」とか「佐賀」は、存在感が無さすぎるがゆえに、むしろ序盤に出やすいと思うが、「岩手」辺りは意外と出ない。私は、まさに岩手のような存在で、存在感がないことを感じさせないほど存在感がなかった (島根、佐賀、岩手県民の人ごめんなさい)。
そんな、クラスでは全く目立たない虫みたいな存在の自分が、ラジオという舞台ではネタが読まれて、パーソナリティに笑ってもらっている、ということで、どうにか精神のバランスを保っていた。日々の鬱積した感情をハガキに書き殴ることが、自分の生きている証だった。誰かの言葉を借りるなら、当時は"闇パワー"で動いていた。

話がどんどん暗い方向にいってるので、一旦戻す。

そんなスクールカーストの最下層にいた高校生が、闇パワーを原動力として馬鹿力に投稿を始めるわけだが、初採用までの道のりは、想像していた以上に長く険しかった。初めて番組で自分のネタが読まれるまで、実に"10カ月"という期間を要した。その間、継続的にネタを出していたかどうかはハッキリと覚えていないが、自分の性格上、律儀に毎週送り続けていたと思われる。ただ、先にも述べたが、その頃は馬鹿力以外の番組にも投稿していたので、せいぜい出せても10ネタぐらいだったと思う。
このブログを書くまで、初採用までの期間を意識したことなど無かったが、まさかそこまで不採用が続いていたとは思ってもみなかったので、投稿するモチベーションが落ちなかった自分に感心するやら呆れるやらである。私の友人に「3回ぐらいラジオ番組に投稿したけど、読まれなかったからやめた」という男がいるのだが、普通はそんなものなんだろうなぁ、と思う。ラジオ投稿するにあたって一番大事なのは、類稀なネタを思いつく発想力ではなく、不採用が続いても根気よくネタを出し続けることができる忍耐力なのかもしれない。

で、初めてネタが読まれたのは、相田みつをの『にんげんだもの』をパロッた『だめにんげんだもの』というコーナーだった。このコーナーは、ダメ人間ならではの味わい深い短文を考えるというコーナーなのだが、当時はこのコーナーがBGMも含めて大好きで、もともとダメ人間気質な上に闇属性の高校生だった私は、日頃から考えていることや自分のダメな部分を、包み隠さずハガキにしたためていた。限りなく実話に則して書いたのが功を奏したのか、

「え、触りまくる?だめだって、間違ってるよそんな答え。だってさ、時間が止まってるのは1時間ってことなんだから、とりあえず写真とか撮りまくってさ、形になるもの残さないとだめじゃん」

というネタで初めて採用を頂いた。これは当時、クラスメイトの熊倉君(前回の投稿記にも登場)とよく「透明人間になったらどうする?」とか「時間が止まったらどうする?」といった非現実的なエロシチュエーションを妄想して、そこで取るべき最善の行動を議論していたときのやりとりの一部を切り取ったものだ。熊倉君とは日頃からこんな不毛な議論ばかりしていたので、妄想系のエロネタには事欠かなかった。
本当にどうでもいい余談なのだが、熊倉君と二人で「クラスの中でオナニーしてそうな女子」というテーマで話していたときに、私が希望的観測も込めて「XXXさん(クラスで一番美人な女子)は?」と言ったところ、「あのさ、真面目に考えろよ」と本気で怒られたことがある。真面目に考えて導き出せる問題なのかどうか分からないが、私の中で妙に印象に残っているダメエピソードの1つである。

で、この初採用を境に、少しずつではあるがネタが読まれるようになった。コサキンのときもそうだったが、1回読まれると、「ああ、こんな感じのやつが読まれるのかー」と感覚が分かってくるから不思議である。まぁ、読まれるようになったといっても、4~5週に1回ぐらいのペースだったが、自分の中では、それでも大きな前進だった。それまでは、「自分の地域から投稿したハガキは、馬鹿力に届く前に全てシュレッダーにかけられているのではないだろうか」と疑心暗鬼に駆られたりもしていたので、無事に届いていることが確認できただけでも良かった。ただ、それと同時に、ネタに目を通されている上でボツにされ続けている事実を突きつけられて、少々落ち込んだりもした。

当時、自分の中で特にお気に入りだったコーナーは、前述の「だめにんげんだもの」以外だと、「早押しクイズQQQのQのQ」が挙げられる。これは、伊集院さんが適当にクイズの回答として何か単語を言って、それが正解になるような問題文をリスナーが考える、というコーナーである。
例として、答えが「120%」になる問題として、以下のようなネタがあった。

今日の『森田さんのお天気コーナー』の中の出来事。森田さんの言ったユーモアに大笑いしたアシスタントの女の子の手が、誤って森田さんの顔に当たってしまい、森田さんのメガネが落ちてしまったからさあ大変。アシスタントがすぐさまメガネを拾い上げた時には、時既に遅し。先程の笑顔も、いつもの気の弱そうな表情もどこへやら、そこには赤銅色の鬼が一人。無言で女の後頭部をわしづかみにすると、天気図にドカーン。おびえ切った表情で「ごめんなひゃい」と謝る声も聞かずにも一度ドカーン。血染めの天気図にビビッたディレクターが、「画面を切り換えろ!」と叫んだのでスイッチャーが天気図をアメダスに切り換えるも、よく考えたらしぶきはそのまま、画面だけアメダス。ここでカメラに向かって森田さんの雄叫び。「ワシを怒らせたら血の雨が降る確率…」さて、何%?

もはや問題文の体を成していないが、要は正解に繋がればどんな文章を書いてもいい、というものだったので、投稿者の発想力が試される自由度の高いコーナーだった。ラジオなのに「シルエットクイズです。この人は誰でしょう?」みたいな問題文もあったし。
また、このコーナーで『珍文』という概念を初めて知ることになる。珍文という言葉が、この番組で生まれた言葉なのかどうかは知らないが、簡単に言うと、頭のネジが外れたような電波な文章を総称して珍文と呼んでいるようだ。自分の中では、コサキンでいうところの「意味ねぇ~」とニアリーイコールだと捉えている。QQQのQの珍文系のネタで、個人的に凄く好きなネタがある。それが以下(答えが「B型」になる問題)。

大相撲の土俵入りには、曙関の雲龍型と若乃花関の不知火型、トゲフリル関の放送禁止型、千代の富士の『大好きなおなじみさんからの真剣なプロポーズを「ウチは芸者やし、あんたみたいないいとこのボンボンとは釣り合いまへん。みんな夢、一晩限りの夢なんどす。さぁさぁ、若旦はん、飲んでおくれやす、ラー油を」』型の4種類ありますが、トゲフリル関の血液型は何型?

多分、普通の人が読んだら何が面白いのかサッパリ分からないと思うし、当時の自分ですら、このネタを初めて耳で聞いたときには「?」マークが何個も頭に浮かんだが、なぜかそれでも爆笑を禁じ得なかったのは、自分の脳が馬鹿力に順応したからだと思う。若干大仰な言い方になるが、後になって改めてこのネタを聴いたときに、"このネタを面白いと感じられる馬鹿力の土壌"に対して、何か深夜ラジオの可能性みたいなものを感じた。これは今でも感じることなのだが、「他の番組では絶対に読まれないけど、この番組だったらこのネタを読んでくれるのではないだろうか?」といった、行き場の無いネタの受け入れ先みたいな側面が馬鹿力にはあって、それによって救われている投稿者が数多く存在すると思っている。私も、その中の一人だけど。

閑話休題

QQQのQは、凄く好きなコーナーだったので、なんとしても読まれたかったのだが、残念ながら1度も採用されずに終わってしまった。当時の自分が送っていたネタを今改めて読み返すと、「そりゃあ採用されないわ!」と突っ込みたくなるような何の引っかかりもない文章のオンパレードなのだが、結局のところ、当時は、ただただ自分が面白いと思い込んでいる荒唐無稽なエゴの塊みたいな文章を送っては自己満足に浸ってだけだったように思う。ピカソの絵を見て「ああ、これなら自分にも書けそう」と安易に考えて、気の向くままに落書きをするのとなんら変わらなかった。実体験からシフトさせるネタについては、それなりに採用されていたが、1から創作で作ったネタに関しては、てんでダメで、かすりもしなかった。採用されることだけに拘るのも良くないと思うが、たとえば、過去に読まれた他の人のネタと自分が書いたネタを並べてみて、そこで自分が書いたネタが見劣りしないかチェックするだけでも、かなり違っていたと思う。

ただ、当時は今には無いパワーがあった。「たとえ読まれなくても、俺が書きたいんだから書く!」といった我を押し通すような独りよがりな思考で、何も考えずに書きたいネタを書いていた。多分、こういう気持ちが無いと投稿は楽しくない。今は若干この気持ちが薄れている感があるが、それでも「これ、絶対に読まれないだろうなー」と思いながらも、王ロバ感覚で井戸の中に放り込むようなネタを、まだちょいちょい出しているので、これが続く限りは投稿はやめないだろうなぁ。

自分がそうであるように、長く投稿が続く人は、こういうタイプだと思う。


次回も学生時代編。

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ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力編(1)~

『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』
『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』
『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ(1)(2)(3)(4)~』

からの続き。

今回の馬鹿力編を書くにあたり、どの辺りから書き始めようかなと迷ったのだが、過去の投稿記と同様に、自分が番組を聴き始めた頃から記憶を辿りつつ、順に振り返っていこう思う。

TBSのJUNK(当時はUP's)の並びだと、最初に水曜の「コサキンdeワオ!」、次に火曜の「爆笑問題カーボーイ」、そして最後に月曜日の「伊集院光 深夜の馬鹿力」を聴くようになった。番組を知ったタイミングについては、そこまで大差なかったと思うが、馬鹿力に関してだけは、毎週必ず聴くようになるまでに長い時間を要した。というのも、当時の私は、伊集院光を只のデブタレぐらいにしか認識しておらず、正直なところ、本人にあまり興味がなかった。これが全く知らない人間だったらフラットな気持ちで聴けたのかもしれなが、中途半端にテレビで知っていたぶん、変な先入観があったのかもしれない。後に、ラジオ関係のことを色々と調べていく中で、人気ラジオパーソナリティーとしての顔を知ることになるのだが、この頃は、伊集院さんが昔ニッポン放送でラジオをやっていたことも知らなければ、居酒屋で局長を一本背負いしてニッポン放送を追放された(かなり誇張が入っている)ことなども、もちろん知らなかった。

で、そういったこともあり、月曜深夜の同時間帯は、JUNKではなく、より自分の興味ある芸能人がパーソナリティーを務めていたオールナイトニッポン(以下、ANN)を優先して聴くことが多かった (そういえば、火曜日も最初は松村邦弘のANNを聴いており、番組が終了したタイミングで爆笑問題に切り替えたことを、書いていて思い出した)。

当時のANN月曜一部は、福山雅治が担当しており、若いリスナーに向けて下ネタ全開のトークを発信していた。今でこそ下ネタを話すのが一般にも知られているが、初めて福山雅治の口から「チンポたつたつ」といったモロな下ネタを聴いたときは、かなり衝撃を受けたのを覚えている。今でいうと、本人のキャラクターを全く知らない状態で星野源のANNを聴く感じに近いだろうか。
ちなみに、この頃の月曜二部はTMR西川貴教が務めており、一部と合体して二人で4時間ぶっ通しSPをやったりしたこともあった。そのときは、朝の5時近くまで起きていたので、翌日は眠い目を擦りながら学校に行った記憶がある。もちろん授業中は寝ていたけど。

福山雅治のANNが最終回を迎えると、次のANNパーソナリティーはロンドンブーツ1号2号だった。このタイミングでJUNKに乗り換えるという選択肢もあったのだが、当時の私はロンブーの方に興味があったので、継続してANNを聴く方を選んだ。ロンブーのANNは、月曜一部としては一年で終了したが、月曜SUPER!の枠(22:00-24:00)に移動してからも聴き続ける程度には好きだった。亮さんが島崎和歌子に本気で告白する企画とか未だに覚えてたりする。
余談だが、ロンブーANNの最終回は、芸人のラジオとは思えないほどスタジオがしんみりして、淳さんが号泣しながら「あー!終わりたくねぇー!」と言いながら番組が終了したのだが、その直後に「来週からは田村淳のANNが始まります」という音声が流れ、思わず「おいっ!!」とラジオの前で突っ込んだことを覚えている。ナイナイのANNが終了したときのように、「来週から岡村隆史のANNが始まります!」「おいおい、なんだよそれー!(笑)」とゲストに突っ込ませる茶番要素が一切なかったので、なんとも微妙な気持ちになったのを覚えている。

脇道に逸れたついでに、この頃のANN話をもう少し。

今でこそTBSラジオぐらいしか聴いていない私だが、当時はニッポン放送も結構聴いていた。それこそ「ナインティナインのANN」は毎週必ず録音して何度も何度も聴いていたし、当時、投稿者の間で絶大な人気があった「U-turnのANN」は、送られてくるネタの壊れっぷりが本当に好きで、毎週バカ笑いしながら聴いていた。
ネット上でラジオリスナーの方と交流するようになってからは、消印所沢さん(馬鹿力の常連投稿者)が方々で勧めていた「GOGO!7188のANN-R」を聴くようになり、同番組に投稿もしていた。ちなみに、消印所沢さんの口コミによって、馬鹿力の投稿者界隈にも番組の噂が広まり、結果、馬鹿力でしか名前を聴くことがなかった「まげまげ」「ピカわ」といった常連投稿者のネタが同番組で読まれる、といった現象が起こり、一部では妙な盛り上がりを見せていた。懐かしい。

話を戻して、

ロンブーのANNが22時の枠に移動するに伴い、入れ替わりでココリコがパーソナリティーを務めることになった。ここでもJUNKに移るチャンス(?)はあったのだが、当時の私は伊集院光ではなくココリコを選んだ。ただ、ココリコは自分的にあまりハマらなかったらしく、3か月も過ぎた頃には、完全に惰性で聴く感じになっていた。そして、番組内で「モーニング娘に対抗して、ノストラダ娘を作ろう!」という企画が立ち上がった辺りで、色々とついていけなくなり、月曜日のニッポン放送とはお別れすることにした。当時、どのくらいの人がココリコのANNを聴いていたのか知らないが、一部の番組にも関わらずWikiが存在しないあたり、人気の無さが伺える。

この辺から、ようやく馬鹿力の話。

かなり記憶がおぼろげなのだが、初めてマトモに馬鹿力を聴いたのは、リスナーを呼んでの『UP's音頭の盆踊り大会』の回だったと記憶している(後で調べたら、1999年8月16日なので、たぶん時期的にはあってる)。この回は、『夏休みエンジョイスペシャル』と題して、リスナーを呼んで盆踊りをしたり、リスナー宅にホームステイしたり、ハレンチ肝試し(日曜の夜9時半頃に、全裸で9Fと1Fの間をエレベーターで往復)をするという、平常回ではなく、いわゆるスペシャルウィークだった。そういう意味で、初めて番組を聴く私にとっては丁度よかったといえる。当たり前だけど、スペシャルウィークって意味あるんだね。

とはいえ、それでも最初は「なんか楽しいことやってるな」程度の感想しか持てず、細かい内容はあまり耳に入ってこなかった。番組の流れを理解して、面白さを感じ取れるようになったのは、聴き始めて1か月ぐらいだろうか。コサキンで慣れていた分、適応は早かったと思うが、ハマり方はコサキンよりも緩やかだった。なんというか、「気がついたら聴くのを止められなくなっていた」みたいな麻薬のようなハマり方だった。

番組を聴いていく中で、パーソナリティーである伊集院光のことも色々と知ることができた。元落語家だということ。元アイドルの奥さんがいること。日ハムのファンだということ。ゲームが好きなこと。高校三年生の三学期に中退したため、最終学歴が中卒なこと。小学校五年のときに実の母親から「お前は、蛇みたいな目をした子だ」と言われたこと。などなど、挙げればキリがない。

また、テレビでいつもニコニコ笑っているイメージと違い、深夜ラジオでは、触るものみな噛みつく、といったような毒性の強い人間だということも分かった。俗にいう"黒伊集院"というやつである。本人としては白伊集院とか黒伊集院といったように、テレビのキャラとラジオのキャラを明確に使い分けているつもりはない、といったようなことを言っているが、当時は黒伊集院を意識してやっていたようなふしがあったように思う。

あと、この番組を聴いていると、夢と現実の狭間をフワフワと漂っているような、そんな感覚に陥ることが多かった。深夜ラジオというのは結構そういうものだったりするが、この番組に関しては特にそれが顕著だった。故・談志師匠(「男子死傷」に誤変換された。悲しい)の言葉を借りるなら、イリュージョンを体現してるというのだろうか。伊集院光による、自分の妄想をリスナーの脳に直接送り込むような巧みなトークが、リスナーの脳汁の分泌を促進し、脳汁が溢れ出た状態で送られてくる投稿者のネタを聴いたリスナーがさらに脳汁を出し_...といった一連の電波サイクルによって、番組はガラパゴスな進化を遂げ、JUNKの中でも一種独特の雰囲気を放っていた。

馬鹿力が始まって20年も経っているので、今は昔に比べて色んな意味で落ち着いてはいるが、それでもかなりクセのある番組であることは間違いないだろう。なので、好みはハッキリと別れると思う。実際、「昔、馬鹿力を聴いてみたけど、どうにも合わなかった」というJUNKリスナーの方を何人も知っている。以前、このブログで、初心者でも入りやすいのはカーボーイだと書いたが、馬鹿力に関しては、ある程度、深夜ラジオに慣れ親しんでから聴いた方がいいと思う。ある意味、最後に行きつく場所(東尋坊的な)だと思っている。

長い前段と簡単な番組紹介だけで終わったので、次回は投稿の話まで行きたい。

 

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ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(4)~

『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』
『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』
『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ(1)(2)(3)~』

からの続き。

ガールのコーナーへの投稿を続けていく中で、「他のコーナーにも出したい!」という欲求が高まってきたので、他に自分が出せそうなコーナーへの投稿を始めることにした。"出せそうなコーナー"というと若干の語弊があるが、要は自分がネタを書きたいと思うコーナーである。

で、「カーボーイのコーナーといえば、やはりCD田中だろう」ということで、何週かに渡ってCD田中に挑戦してみたのだが、これが箸にも棒にも引っかからなかった。前回も書いたが、CD田中というのは、SASUKEに出るようなアスリート志向の投稿者の方々が、先人たちが築き上げてきたネタの黄金パターンを礎として、日々新しいパターンを模索しては日進月歩で進化を遂げている、素人にはなかなかハードルが高いコーナーなのである。

コサキンでCD大作戦のネタを書いていた頃は、採用されなくても「次こそは!」と躍起になったものだが、CD田中は、選曲に加えて、放送中に田中さんが発した台詞を逐一チェックしなくてはならないため、何かのタイミングで「これは労力に見合わない」と見切りをつけて、早々にネタを書くのをやめてしまった。このコーナーに継続してネタを出し続けられるのは、本当に選ばれた人間だけだと思う。

ちなみに、先日、某ラジオ関連の飲み会で、カーボーイでも名前をよく耳にする常連の方(コミュニケーション能力が吐瀉物レベルに低いという意味のRNの方)から「CD田中に60ネタを送って全ボツだったことがある」という話を聞いて「ああ、ホントに狭き門なんだなぁ...」と改めて思い知らされた。もちろん、当時と今では採用基準も送られてくるメールの数も違うと思うが、それほどまでに情熱を持って投稿してくる人が毎週数多くいるわけだから、そこに食い込むのは一筋縄ではいかない。

そんなわけで、CD田中はスパッとあきらめたのだが、CD田中以外だと、当時は正直そんなに投稿したいコーナーが無かった。前回紹介した「今週の田中」は、爆笑問題の出ている番組をチェックしなくはいけない分、むしろCD田中よりもハードルが高かったし、リスナーが自分の周りの酒豪自慢を紹介する「酒豪自慢」は、どうしても似通った系統の長文ネタになると思ったので、出す気は全く無かった (あと、カーボーイでは長文ネタでしか読まれたことがなかったので、短文ネタが書きたいという気持ちもあった)。一応、短文ネタのコーナーがいくつかあったのだが、自分の中でいまいちピンとこなかったので見送りにしていた。今考えてみると、本当にワガママだな俺。

そんな中、何の前触れもなく突如始まったのが、「長井秀和ネタCD化計画」というコーナーである。これは、タイタン所属の芸人・長井秀和氏が、自分のネタCDを発売するべく、リスナーからネタを募集するという、ある意味では他力本願ライブのようなコーナーなのだが、カーボーイとしては珍しく、長井さんがネタを選び、長井さんがネタを読み上げるという箱番組スタイルだった。ちなみに、長井さんといえば、今でこそあんな感じだが(失礼)、当時は「間違いないっ!」の決め台詞が流行し、精力的にバラエティにも出ていた。また、当時は本人が管理している個人サイトも存在し、そこの掲示板でリスナーやファンと交流をしていた。私もそこで何回か本人とやりとりした記憶がある。

で、この長井さんのコーナーは「割と自由に書けそうだな」と直感的に思ったので出すことに決めた。最初は、お約束の「間違いない!」で締めるネタだけだったのだが、コーナーの雰囲気的に「これ、もしかして自分で勝手にフォーマットを作って送ったら読まれるのでは?」と思い立ち、「間違いない!」以外のパターンのネタをいくつか送ってみたら、これが採用された。それ以降は、リスナーが自由にフォーマットを考えて、それに乗っかってまた新しいネタが生まれる、というサイクルができていった。

これは、このブログを書いていて気付いたことだが、私はフリーフォーマットで好き勝手に書けるコーナーが好きらしい。ずっと投稿していた「ザ・ガール」も基本的には何を書いてもいいコーナーだったし、後に始まった「少年ピップ」というコーナーは、"ピップ"という登場人物さえ出せば、後は何を書いてもいい、という、あまり制約の無いコーナーだったので、その自由さに惹かれて何通かメールを送ったのを覚えている。「面白い短編小説が読みたい」のコーナーしかり、昔は今と比べてリスナーに丸投げするコーナーが多かったように思う。

で、そんなこんなで、ついにネタCDを発売するとなったとき、CDに入れるネタを書いたリスナーが番組内で発表され、私の名前も読み上げられた。そして後日、ノベルティと一緒に『お話しさせていただきます。』というネタCDが番組から送られてきて、韓流スターのような笑みを浮かべた長井さんのジャケットの裏に、ちゃんと「フジキク」という名前が小さく書いてあった。後にも先にも、CDにラジオネームが載ったのはこのときだけである。

ちなみに、長井さんはテレビでもリスナーのネタをやっており、TBSの「うたばん」にゲストで出ていたときは、私の書いたネタが普通に使われていた。それを観たときには、嬉しいような恥ずかしいような、なんとも言えない不思議な気持ちになったのを覚えている。当時は周りにラジオを聴いてる人がいなかったので、誰にも言えなかったけど。

とまぁ、爆笑問題カーボーイの投稿にまつわる思い出は、大体こんな感じだろうか。

4回に分けて長々と書いたが、これらは全て1999年~2003年までのたった4年間の出来事である。まだ田中さんの玉も2つあった頃の話だ。そこからさらに今日に至るまでの14年もの間、数々のコーナーが生まれては消え、投稿者も目まぐるしく入れ替わり、田中さんの玉も1つになった。私にとってはこの4年間が一番印象深いが、他のリスナーにとっては、きっとそれぞれ思い入れのある時期は違うだろう。夢中になって聴いていた時期というは、往々にして、ラジオを聴き始めた時期と一致するので、今年から番組を聴き始めた若いリスナーにとっては、きっと今が一番記憶に残る時期になると思う。この時期を、ホントに大事にしてほしい。

最後に、若干臭い言い回しになるが、投稿者が10人いれば、10人分のドラマがある。このブログを読んで何かを感じてくれる人がいたら、そのドラマを少しでも私に見せてくれると嬉しいな、なんてことをボンヤリと思いながら締めの言葉とさせて頂く。


次回、『ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力編~』へ続く(かもしれない)。

ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(3)~

ラジオ投稿記~STVラジオ編~
ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~
ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(1)~
ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(2)~

からの続き。 


まず、自分自身の話を少し。

ガールのコーナーで読まれるようになったのと時期を同じくして、ラジオ関係のサイトで知り合った女性(以下、Aさん)とメール友達になった。当時、私は高校生で、Aさんは自分より年上のOL。お互いに住んでいる地域が離れていたので、コミュニケーションの手段はメールのみだったが、精神年齢の低い男子高校生の自分からしたら、大人のお姉さんとメールをするのは凄くドキドキしたし、そんな人とラジオの話ができるのはとても楽しかった。もちろん、カーボーイの話もした。

高校生の男子というのは、往々にして恋に落ちるスピードが速い。しかも私の場合は、かなり童貞をこじらせていたので、色々と自分の中で妄想を膨らませすぎた結果、会ったこともなければ電話すらしたこともないAさんに対して、無謀にもメールでの告白を決行した。そのときのメールの文面はハッキリとは覚えていないが、「好きって言ったら笑いますか?」といった、童貞ラブレターコンテストがあったら大賞を狙えそうな文章を延々と書き連ねた記憶がある。多分、今読んだら1時間ぐらいはジタバタできると思う。

で、当然のごとくフラれた。そうなることは自分でも薄々気付いていたので、「まぁ、仕方ないよな」と早々に心の整理はつけたつもりだったが、どうしても自分の胸の中だけで留めておくことができなかったので、告白したことをカーボーイに投稿することにした。当時の自分は、ラジオ投稿を"何を叫んでもいい井戸"のように考えており、ラジオに投稿さえすれば何か自分の中で救われると思い込んでいたふしがあった。

ただ、投稿したといっても、あくまで本チャンのガールネタのついでとして書いたものだった。その上、どうせ読まれないだろうと高を括り、「BGM:尾崎豊『I love you』」と文頭につけてみたり、面白いことを一切入れずにに事実を淡々と述べるなど、ネタというより、単なる独白みたいな文章を送った。

こういうリスナーのオナニーみたいな文章も悪ノリで読むタイプの番組だということを、このとき完全に失念しており、結果として、童貞が井戸に向かって叫んだ言葉は、ラジオを通して全国のカーボーイリスナーの耳に届くことになった(ちゃんとBGM付きで)。

この独白文が読まれてからというもの、Aさんからはパッタリとメールが来なくなった。待つのに耐え切れず、こちらからメールでおそるおそる聞いてみると、1行だけ「またネタにされるといけないからね」という返事が来て、そのメールを最後に、Aさんから二度と連絡が来ることはなかった。

以前、NHKの「ハガキ職人のウタゲ」というラジオ番組に出させて頂いた際にもこの話はしたのだが、今考えても本当にイタいやつだったなぁ、と思う。「イタいやつだったなぁ」と書くと、まるで今現在は直っているかのように思えるが、ごく稀に「ああ...送るんじゃなかった...」と後悔するような実話ネタを送っては不採用になってホッと胸を撫で下ろす、といったことを繰り返しているので、根っこの部分では当時とたいして変わってない気もする。

番組の話に戻る。

この一件で、ネタの中にBGMを流してもらえるということが分かり、おのずとBGMを使うネタが増えていった。FMの音楽番組などでリクエストは1曲も読まれたことはないが、カーボーイではネタを通して色々と曲をかけてもらった。もちろん、爆笑問題の二人が知らない曲はかからないと思っていたので、選曲は古めだったけど。私の音楽の引き出しだけでは限界があったので、当時メル友だった伊集院系の投稿者でクソムシさんという方に「こういう状況のときに流す曲ってどういうのが合いますかね?」と相談に乗ってもらったりもした。BGMを使うネタは私の専売特許みたいな感じになっていたらしく、私以外が書いたガールのネタでBGMが使われることは一度もなかった。ただ、BGMを使うのはドーピングにも似た感覚があり、他の投稿者に対して後ろめたいという気持ちがあったのか、できるだけBGMを使わないネタも書くように心がけていた。

当時は、JR時刻表マニアさんがカーボーイでの採用数を集計するサイトを運営しており、そこでガールのポイントも合わせて集計していた。あるとき、私の合計ガールポイントが1000ガールに達したので、(前回のラジオ投稿記で取り上げた弟子のコーナーではないが) 何かのネタのついでに「1000ガールを超えたので、名目上、田中さんの弟子にして頂けませんか?」と頼んでみた。すると田中さんから「ああ、別にいいよ」と軽い感じでOKをもらえたので、一応、私が田中さんの4番目の弟子ということになっている。ちなみに、ミセスチルドレン(現タキシードは風に舞う)さんも同じように1000ガールを超えて、私と同じく弟子になることを番組内で所望したので、5番目の弟子となった。それ以降は、私の記憶が確かなら弟子希望者はいなかったはず。ちなみに、弟子になったからといって、それで何か得をしたことは一度もない。

この頃のカーボーイはというと、ザ・ガールのコーナー以外に、田中さんの悪行をリスナーの視点で報告する「今週の悪田中」、太田さんが適当に思いついた言葉の意味を辞書風に考える「新明解太田辞典」、身の回りにある300:29:1(ハインリッヒの法則)の事柄を考える「ハインリッヒの法則」、そして今も現役バリバリの「CD田中」などがあった。自分が投稿していた時期というのもあるが、この頃のコーナーのラインナップはとても好きだった。

"全盛期"というと語弊があるが、CD田中が一番にぎわっていたのも、この頃だったと思う。というのも、当時はオングストロームさんというCD田中専属の投稿者さんがいて(大変お世話になりました)、その方がCD田中のファンサイトを運営していた。しかも、歌詞をサイトに載せるということで、わざわざJASRACにお金を払っていたので、CD田中にかける情熱がどれほどのものかお分かり頂けるだろう。CD田中に憑りつかれている投稿者の方は今でも多いが、このコーナーは投稿者を熱くさせるSASUKE的な魅力があるのかもしれない。
ちなみに、田中さんがCD田中のネタで笑いすぎて宛先が読めず、代わりに太田さんが宛先を読んだのもこの頃である。

「今週の悪田中」も好きだった。その週に放送された爆笑問題の出演番組をチェックし「これは悪い田中だなぁ~」と思ったことをリスナーから報告してもらう田中さんイジりのコーナーなのだが、ここに送られてくる報告メールの観察力と悪意の含ませ方がホントに絶妙だった。報告を受けた田中さんが、「いやいやいや!オレ、そんなこと思ってないから!」と否定して、そこからさらに番組の裏話へとトークが広がる流れも好きだった。後に「今週の良い田中」「今週の普通の田中」が生まれ、最終的には「今週の田中」というコーナーに統合されるのだが、報告系のコーナーとしては今でも一番面白いと思っている。
それにしても、田中さんの言動をチェックするコーナー、多いな。

で、そんなコーナーの隆盛に反して、オープニングのフリートークは、聴いていて「キツイなぁ」と思うことが結構あった。太田さんが田中さんを罵倒するのは、今でも日常茶飯事的に行われているが、当時はそれが度を超えており、本気で田中さんの人格を否定をするような場面も見られた(まぁ、本気なんだろうけど)。田中さんが自分の話をさせてもらえない、といったことも多かったので、今の、田中さん主導で話が進んでいく形式に慣れている若いリスナーは、当時の放送を聴いたら衝撃を受けるのではないだろうか。まぁ、その険悪な空気も含めてオモシロ、という風に言われればそうなんだけど、当時の私はそれを受け入れられるだけのキャパシティがなかった。

今回でカーボーイ編は終わる予定だったが、もう少し書きたいこともあるので、それは次回に持ちこし。というわけで、『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(4)』へと続く。多分、次回でラスト。



当時、ガールのコーナーに送っていたDJ夏美シリーズが youtube に上がってた

www.youtube.com

第4次スーパーロボット大戦の思い出

最近スーパーロボット大戦Vが発売されたことにより、「久しぶりにスパロボやりたいな~」とスパロボ熱が再燃してきたので、スパロボの思い出について少し語りたいと思う。
スパロボ作品の中で個人的に一番好きなのは、スーファミ時代初期の名作である「第3次スーパーロボット大戦」なのだが、今回は「第4次スーパーロボット大戦」の方を取り上げる。

第4次スーパーロボット大戦(以下、第4次)が発売されたのは、私が中学生のときだった。当時、同級生にスパロボが好きな近藤くんという友人がいて、よく第3次スパロボの話をしていたのだが、第4次が発売された直後は、近藤くんと「第4次、どこまで進んだ?」とお互いの進捗確認をするのが日課となっていた (今の仕事の進捗確認より全然ちゃんとやっていた)。

私も近藤くんも、終盤までだいたい同じくらいのペースで進んでいたのだが、あるステージで私が大きく足止めを食らうことになった。第3X話「栄光の落日」である。このステージ、第4次の中でも屈指の難易度を誇るステージだったらしく、「栄光の落日」と検索バーに入力してみると、第二検索ワードに「トラウマ」と表示されることから、かなりの難易度の高さがうかがえる。

このステージについて簡単に説明すると、敵の増援がやたらと多く、四方を敵に囲まれる上に、地形も山ばかりで非常に戦いにくいという、ドSのゲーム作家がイタズラに作ったとしか思えないような構成なのだが、何よりキツかったのが、味方のチーム編成である。
スパロボというのは、仲間が増えていくと、途中でチームが二つに分かれてそれぞれ別のルートを進む、というのがお決まりになっているのだが、たとえば、仮にAチームとBチームがあったとして、Aチームのロボットばかりを強化して、Bチームの強化をおろそかにしていると、途中でBチームのルートに切り替わったときに詰むのである (最近のスパロボは、基本的にどちらのチームのルートに行くか選べるので、あまりこういうことは起きない)。

まさにこのパターンに陥ってしまい、主人公機以外は全く強化していない弱小ロボット軍団で戦いに挑むことになった。最初の頃は、「まぁ、でも何とかなるだろ」と楽観的に構えていたのだが、すぐにそんな甘い考えは粉々に砕け散り、惨敗の日々が続いた。で、幾度目かのゲームオーバーのときに「ああ、これはもう無理だな...」と悟り、完全に匙を投げてしまった。
そして近藤くんにも「あの面...諦めるわ」と伝え、第4次スーパーロボット大戦終了宣言を出した。戦争は終結したのである(自分の中で)。栄光には程遠い落日だった。
後日、近藤くんから「『栄光の落日』、難しかったけど何とかクリアしたよ!」と言われたことにより、今まで以上にやる気が失せ、もはや第1話からやり直すなんてことは1ミリも考えようとしなかった(自分ひとりだけでゲームをやってるならまだしも、友人と競ってるときに最初からやり直すというのは、精神的な負荷が大きい)。

そして、それから一年が経過する。

ある日のこと、ふと「久しぶりに、第4次やってみようかな」と思い立ち、ソフトを起動させてみた。そして、相変わらず目の前に立ち塞がる「栄光の落日」。一瞬にして敗戦の日々の記憶が蘇ってきたが、気持ちを切り替えて戦略を練り直し、色々と試行錯誤してやってみたのだが、結局どうにもならずゲームオーバーの画面をまた何度も見るはめになった。

と、そんなこんなしていたら、あることに気が付いた。ゲームオーバー画面からAボタンを押して再開すると、同じマップをプレイできるのだが、その際に資金と経験値が全滅前のプレイで稼いだものになっているのである。そしてもう1つ、恐ろしいことに気が付いてしまった。MAP兵器(一度に複数の敵を倒すことが出来る広範囲な兵器)を使ってフィールド上の仲間を攻撃して倒すと、なんと資金と経験値が手に入るのである(※後で調べたら、初期生産分ソフトのみでしか使えない技らしい)。

以上の二つの技を組み合わせると、禁断のプレイができることは想像に難くないだろう。「はーい!そこ、ちゃんと並んでー!」と、記念写真でも撮るかのようなノリで、MAP兵器の射程圏内に仲間を並ばせ、それをエルガイムMk-Ⅱのバスターランチャーで一気に破壊する、という非人道的なプレイを延々繰り返した。そして、憑りつかれたように全滅プレイを続けた結果、最終的にエルガイムMk-Ⅱのパイロットであるダバ・マイロードのレベルが92になり、普通の敵の攻撃などまず当たらない超エース級パイロットへと悪魔的成長を遂げた。ダバ・マイロード本人も、まさか敵より味方の撃墜数が多くなるとは夢にも思っていなかったことだろう。
参考までに言っておくと、普通のプレイをして最終ステージまで行った場合、どんなに頑張ってレベルを上げても、せいぜい50が限界である。

ただ、これらの反則技をやっても、簡単には勝たせてもらえなかった。というのも、結局、MAP兵器が使えるのはごく一部のロボットだけなので、途中で乗り換えができない以上、このレベル上げ方法が使えるパイロットは実質2~3人なのである。で、その異常なまでにレベルが上がったパイロットを前線に押し出して敵の体力を少しずつ削り、スーパーロボットでトドメを刺す、というようなプレイで、どうにか活路を見出し、長時間の激戦の末、どうにかクリアすることができた。一年越しの勝利だったので、喜びも大きかった。自分の中の一年戦争がようやく本当の意味で終結した瞬間だった。

で、このステージをクリアした後は、全滅プレイによって得た莫大な資金を使って、ロボットの一斉強化を行った。その甲斐あってか、第二の難所とも呼ばれれている第4X話「オルドナ・ポセイダル」も、そこまで苦労することなく一発でクリアすることができた。そして、そのままトントン拍子でラストステージまで駆け抜け、拍子抜けするほど簡単に全クリしてしまった。
「やはり、第4次は『栄光の落日』をクリアできるかどうかに尽きるなぁ」と、そのときに思った。

とまぁ、色々と書いていたら、あんなにツライ思いをした「栄光の落日」を久々にやりたくなった。
スパロボ好きというのは、ドMなのかもしれない。

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ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(2)~

ラジオ投稿記~STVラジオ編~
ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~
ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ編(1)~

からの続き。

藤井理奈というラジオネームを捨てたのを境に、カーボーイへの投稿をしばらく休んだ。

「休んだ」という表現は、投稿という趣味に対して仕事感が出るので少し抵抗があるのだが、投稿すると決めた番組については、基本的に毎週出さないと気が済まない性分なので、この表現が一番しっくりくる(仕事のように義務感が生じたり、締切を設けたりするのは、割と投稿者あるあるだと思う)。

投稿を休んでいる1年の間、番組ではいろんな動きがあった。

その中でも最大のトピックスといえば、「田中の弟子募集」コーナーの登場だろうか。このコーナーは、2001年のコーナー乱立期に降って湧いた新コーナーの1つで、その名の通り、「田中さんの弟子になりたい!」と希望するリスナーを募集するコーナーである。もちろん、ただ募集するだけではコーナーとして成り立たないので、漫才やコントなどのネタを一緒に送ってもらい、ネタの出来に応じて田中さんから「デシベル」という単位のポイントが与えられ、これを1000デシベルまで貯めると晴れて弟子として認定される、ということになった。察しの良い方はお気づきかと思うが、「1000デシベルまで貯めると弟子になれる」と最初に言い出したのは太田さんである。

このコーナー、最初に聴いたときは、2~3週ぐらいで終わると思っていた。なぜかというと、過去に「田中のカラオケ友達募集」という似た系統のコーナーがあり、それは3週ともたずに終了したからである。「何かを募集するコーナーは短命」という思い込みがどこか自分の中にあった。
そんな自分の予想に反して、弟子募集コーナーは番組の名物コーナーへと成長していった。毎週毎週、個性あふれるリスナーが「弟子にしてください!」と言って、番組に渾身のネタをぶつけてきた。このコーナーにネタを送ってくる人が本当に田中さんの弟子になりたいかどうかはさておき、これを足掛かりにして作家への道を切り開きたい、と野心を抱いていた人も少なからずいたように思えた。実際、弟子認定されたうちの1人は、上京して番組の作家になった(後述)。また、「デシベルを貯めて他の人と競う」という、ある種の賞レース的な要素が、リスナーの投稿意欲を駆り立てたのも人気コーナーになった一因だと思う。

そして、弟子募集コーナーが始まって1年も経たないうちに、1000デシベルに到達した猛者が何人も現れた。野口悠介(現カーボーイ作家)、藤田ハル(現カーボーイ作家の秋葉高彰の劇団ユニット『ザ☆夕方カレー』制作助手)、新堂ひろし(演歌歌手)の三名である(敬称略)。三者三様でキャラクターは全く違っていたが、全員、番組に強烈なインパクトを残したという点では同じである。特に、流れの演歌歌手である新堂さんにいたっては、番組内に「新堂ひろしのオーディションぶね」(新堂さんの代表曲『まつりぶね』とかけている)という単独コーナーもできたりと、番組が全面バックアップ体制を敷いていた時期もあった。
野口さんはこの中で一番年齢が若かったが、「作家になるとしたら多分この人だろうな」と思うほどネタを書く才能に溢れた人だった。なので、カーボーイの作家になったときも、あまり驚かなかった。ちなみに、弟子として投稿されていた頃は、ちょいちょいファンサイトの掲示板にも姿を見せていた。
弟子の中で唯一、藤田さんには何度か(カーボーイ関連の飲み会で)お会いしたことがある。本人のことをアレコレ言うのは気が引けるが、番組内でもイジられているように、ネタの中では「うひょー!」と叫びつつも、実際に会うと本当に物静かな方である。私もどちらかというと無口な人間だが、あそこまで寡黙な方は今までの人生で出会ったことがない。あと、雰囲気のあるイケメンさんである。

そんな3人の弟子が誕生したタイミングで「田中の弟子募集」コーナーは終了し、「募集」という二文字が消えて「田中の弟子」コーナーが新たに始まった。といっても、基本的にコーナーの中身は変わらず、継続して弟子全員にネタを書いて送ってもらったり、爆笑問題から出される宿題に対して回答(ネタ)を送ってもらったりしていた。特定のリスナーのネタを毎週必ず読むコーナーは、後にも先にもこのコーナーぐらいだと思う。

この辺から自分の投稿の話。

弟子コーナーが始まって間もない頃、「ザ・ガール」という新コーナーが始まった。
このコーナーは、弟子コーナーでの「新コーナーの企画案」という宿題で、野口さんが考案したコーナーである。ガールらしい行動やシチュエーションをリスナーが考えて、それに対して田中さんがガール度を採点する、というものだ。「ガールらしい」の判定基準は田中さんの中にしか存在しないが、田中さん曰く、「全盛期のキョンキョン」が満点の100ガールらしい。ちなみに、今の奥さん(山口もえ)は82ガールくらい。

コーナーが始まった当初は、正統派な短文ネタが多かったが、回を重ねるにつれ、徐々に「それ、ガールじゃねぇだろ!」と田中さんに突っ込まれるネタが増えていった。深夜ラジオのコーナーとしては順当な進化の仕方である。

当時、高校生だった自分は「このコーナーにネタを送りたい!」と強く思った。
というのも、当時は、女性視点のショートストーリーを書くのがマイブームだったので、それがネタに使えるのではないかと思ったのだ。同じクラスの友人・熊倉くん(小説家志望)が、ファンタジーなエロ小説を書いていたので、それに感化されて文章を書き始めた、というのもあったかもしれない。完全なる蛇足だが、熊倉くんが書いたエロ小説を自習の時間に読ませてもらっては、「この辺のくだり、エロくて良かったわ」と感想を言う、というモテる要素が全く見当たらない行為をよくしていたのが昨日のことのように思い出される。熊倉くん、元気かな。

閑話休題

女同士の友情をテーマにしたキャバクラ嬢のショートストーリーが自分の中でお気に入りだったので、それをネタ用に少し手直しして送ることにした。その際、「ラジオネームはどうしよう?」となった。カーボーイへの投稿を始めた当初に使って全く採用されなかった現ラジオネームの「藤井菊一郎」は使いたくなかったし、かと言って「藤井理奈」は完全に闇に葬った。で、色々と考えた結果「コサキンの洗礼で『ふじきく!』って呼ばれてるから、フジキクでいいや」というところに落ち着き、現ラジオネームの略称を使って送ることにした。

ガールのコーナーは、基本的に短文ネタしか読まれていなかったので、「さすがに長すぎて無理かな...」と思ったが、逆にそれが良かったのか一発で採用された。
藤井理奈での採用経験があったので、ネタを読まれたことに対してそこまで衝撃はなかったが、それでもやはり爆笑問題の二人が笑ってくれるのは凄く嬉しかった。性別を偽ってネタを送っていた頃は、自分ではない誰かを演じていたので、読まれても純粋に喜びきれない部分もあったが、今度は100%自分自身のネタなので、心から喜ぶことができた。それに、誰に見せるわけでもない自分のためだけに書いていた妄想文がネタとして日の目を浴びたことにより、何かが報われたような気がした。

その後も、ドラマっぽいショートストーリーをガールのコーナーに送り続けた。自分のネタがうまく番組にハマったのか、その後も出すネタ出すネタで採用をいただいた。あれだけボツが続いた日々が嘘のようだった。基本的に、週に長文ネタを1~2通送って、1通は採用されるというパターンだったので、不採用の方が少なかったと思う。この頃は、とにかくガールのネタを考えるのが楽しくて仕方なかった。書いていて楽しいネタというのは、パーソナリティーにもそれが自然と伝わるものである。

長井秀和のネタCD化計画」というコーナーが始まるまでは、ガールのコーナーにしかネタを出していなかったが、逆に、それによって爆笑問題の二人に「ザ・ガール=フジキク」という印象を残せたと自負している。田中さんに「こいつ、本当にドラマが好きなんだろうな」と言われたことは、今でも鮮明に覚えている。

もう力尽きたので、次回へと続く(やはり2回では書ききれなかった)

昔の日記について

少し前に、mixiが「黒歴史日記を掘り返すキャンペーン」という企画をやっていた。
私は、自分が昔に書いた恥ずかしい文章などはワインのようなもので、寝かせれば寝かせるほど熟成されて良い味が出てくると思っている。そういう意味で、自分の黒歴史に対しては、さほど抵抗がない (といっても、ものによるけど)。
で、古いmixi日記を読み耽っているうちに、何か誘発されたのか、自分が学生の頃に書いた文章などを無性に読みたくなり、眠っていたHDDをひっぱり出してみた。

大学の頃は、『女形風味』という自分の個人HPを持っていたので、そこでほぼ毎日、日記なのか妄想なのか判断がつかないような駄文をダラダラと書いていた。そのときの日記のデータがかろうじて生き残っていたので (ネットラジオのデータは、ほぼ消してしまったようだが) 、いくつか載せたいと思う。今がちょうどクリスマス時期ということで、それくらいの時期に書いたやつを以下にピックアップする。


『それぞれのクリスマス』④

「葵、もう寝ちゃったみたいよ」
平山佐紀は襖を後ろ手で静かに閉めた。
「今日は大分はしゃいでたから疲れたんだろう」
キッチンテーブルで小皿に盛られたサラミをつまみながら夫の秀雄は言った。軽くワインが入っているため、頬がほんのりと赤くなっている。
佐紀が秀雄の前に座る。
「プレゼントはもう用意したの?」
「ばんたん」
「それじゃ、例年通りお願いね」
「ああ、起さないようにそっとな」
空になったグラスに秀雄はワインを注ぐ。
「なんか...葵が生まれてからずっと葵中心の生活になっちゃったよね」
佐紀は両肘をテーブルにつき、重ねた両手の上に顎を乗せた。
「そうだな。まぁ、世間一般では、それが普通なんじゃないか」
椅子から立ち上がり、秀雄は戸棚からもう一つグラスを取り出し、佐紀の前に置く。
「うん、そうなんだけど...」
そう言いながら、佐紀は秀雄から視線を外した。
「たまには、パパとママじゃない時間も作りたいな...なんて」
佐紀は自分の発した台詞に少し赤くなった。 秀雄はそれを見て軽く口元を緩めると、佐紀のグラスにワインを注ぎ、自分のグラスを佐紀のほうに掲げた。少し照れながら、佐紀もそれに倣う。
二人は小声で「乾杯」と言うと、カチャッとグラスを合わせた。
『パパとママ』から、恋人同士へと戻る瞬間。
窓の外はいつしか雪が降り始めていた。


『それぞれのクリスマス』①

居酒屋。
「ったくさー!何さあの男!」
神林里美はテーブルに上体を預けたまま、グラスを叩き付けた。ビールがテーブル上に少し散った。
「何も...何も、クリスマスの前日に別れ話なんてしなくてもいいじゃない...」
「酒が進むねぇ」
対面でタバコを吸いながら、古峨良照は面白い物を見るような目で里美を眺めている。
「飲まなきゃやってられないですよ!」
里美は顔を真っ赤にしながら言った。
「...って、古峨さん!!私のことは、ほっといてください!!」
「そうはいかんだろ、ほっといたら川にでも飛び込みそうな勢いだからな」
「飛び込みますよホントに...はぁ...」
溜息をつき、里美は再び顔をうつ伏せにする。
「一つタメになることを教えようか」
独りごつように良照は言った。
「酒を飲んで忘れられることというのは、別に普通にしてても忘れられるものなんだ。酒は人間を錯乱状態にさせるが、それはあくまで一時的なことで、記憶というのはちゃ~んと脳に残ってる。ゆえに、心に深く負った傷というのは酒の力じゃどうしようもならんわけよ。ヤケ酒というのは非常に効率が悪い」
「一時的でもいいですよ私は」
「ふ~む、さてさてどうしたものか」
軽く肩をすくめ、良照はタバコの火を消した。
「神林...これから、オレんち来るか?」
「え...?」


「...って、一瞬でもドキッとした私が馬鹿でしたよ」
喧騒にかき消されるほどの小さな声で里美は呟いた。
「あ?何か言ったか?」
鍋に具材を入れながら良照は振り返る。
「古峨せんぱーい!肉入れてくださいよ、これじゃただの野菜鍋ですよ」
一人の男が不平を洩らした。
「うるさい!豆腐を食え豆腐を!」
「だいたい人数が多すぎるんですよ、こんな狭い部屋で」
別の男の声が飛ぶ。
「狭くて悪かったな。だが、そのぶん温まるぞ」
「古峨さん...私やっぱりかえ」
と里美が口を開きかけたところで、それを遮るように良照が、
「ほらほら!神林!そんなとこに突っ立ってないでここに座れ!」
「はいはい...」
その後、良照の家では深夜まで鍋パーティが続いた。
最初は乗り気ではなかった里美も、いつしか団欒の輪に加わり、先ほどまでの嫌な気持ちが消し飛んでることに気付いた。
「...たまにはこういうクリスマスもいいかな、なんて」


極私的妄想劇場②(基本的に適当なネタが思いつかなかったときに書きます)

「ねぇ、藤井クン、男の子ってどういうときにHになるの?」
三重野妙子はニヤニヤしながら言った。
「あのー、そういう確信犯的な質問やめてもらえます?先輩」
「あら~?どうして?」
唇を尖らせ、わざとらしく首を傾げながら妙子は藤井の顔を覗きこんでくる。
「...もうその手には乗りませんよ」
「へぇ~」
妙子は藤井の耳たぶをいじりながら、
「でも以前は困惑しながらも内心喜んでたように見受けられたんですけどー」
「まぁ、前は前...ってことで」
精一杯虚勢を張り、そっぽを向く藤井。
「じゃあこういうのは?」
妙子は体を摺り寄せ、顔を藤井の肩にポンと乗せた。
「あー、結構効いてるみたい」


極私的妄想劇場⑤(眠くてしょうがないときに書きます)

相変わらず入院中の藤井。
このまま足が退化するのでは、と心配になるるほど藤井は動いてなかった。
「ふはぁ~あ...、暇だ」
両腕を使えないときのあくびというのはどこか滑稽だな、とどうでもいいことを思いながら藤井は窓外の樹木に目をやった。
「こんちわー」
「わっ」
カーテンが急に開き、麗子(保健の先生)が顔を覗かせた。
「お見舞いにきたよん」
「もう、驚かせないでくださいよ」
「なんだ、思ったより元気だね。心配して損しちゃった」
麗子は藤井のベッドに腰を下ろす。
「へぇ~、これ固定されてるんだね」
ギブスを指でちょんちょんと突きながら麗子は訊く。
「ええ。でも、もう少しで外せるみたいなんですけど」
「それまでは、このまま動けないの?」
「そうです、なもんでもう暇で暇で...」
藤井が喋っている途中から、麗子は藤井の胸あたりに指を這わせた。
「ちょ、ちょっと!!何してるんすか!?」
「いや、どういう反応するかなー、と思って」
新しいおもちゃを与えられた子供のような瞳で麗子は続ける。
「この後、『ずっと両手が使えないから、溜まってるんでしょ?』とかいう展開を期待してるんでしょ?」
「...図星って言ったらどうします?」
「へぇ~、って言うだけ」
「(...完全に弄ばれてんな俺)」
その二人のやりとりをカーテンの外で聞きながら、篠崎彩子は一人笑いをこらえていた。


『それぞれのクリスマス』(極私的妄想編)

「まさか、クリスマスも病院で過ごすとは思わなかったな...」
藤井はベッドの中で倦怠感に包まれていた。
視界に白いものが入ってきたので、チラッと窓外を見やる。
「雪か...」
藤井は視線を天井に戻した。
「雪国の人間にとっては珍しくもなんともないな」
「藤井さん、起きてますか?」
仕切りカーテンの向こうから女性の声が聞こえた。
藤井は瞬時に篠崎彩子とわかった。
「あ、はい、どうぞ」
「こんばんわ~」
彩子は手にケーキ用の白いキャリーデコ箱を持っていた。
食事用スペースにその箱を置き、窓の外を見ながら彩子はベッド脇のスツールに腰を下ろす。
「わー、降ってきましたね。寒いわけだ」
彩子は息を吐きながら手をすり合わせる。室内はあまり暖房が効いていなかった。
「どうしたんですか?こんな時間に」
藤井は訊いた。この時間に彩子と話すのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「これケーキなんですけど、一緒に食べません?今日、買ってきたんですけど」
そう言いながら彩子は箱の蓋を開けた。
色とりどりのケーキが並び、目にも鮮やかだった。定番のイチゴショートもあった。
「お、いいですねー、今夜はクリスマスですもんね」
「それもあるんですけど、あの、8日遅れの藤井さんのお誕生日祝いも一緒にと思って。ほら、12月17日は藤井さんの誕生日でしたよね?」
藤井は虚を衝かれたような顔をした。
「え、篠崎さん、覚えててくれたんですか?っていうか、それ以前に知ってたんですか?僕の誕生日」
「え、ええ、まぁ」
いくぶんか歯切れの悪い調子で彩子は答える。しかし藤井は特に気に止めなかった。
「ううう~、こんなに人の温かみに触れたのは初めてですよ」
藤井はわざとらしく両眼の位置に右腕を当てて、感涙にむせぶ仕草をしてみせた。
「ちょっと大げさですよ藤井さん(笑)」
「だって...12月17日は誕生日だっていうのに、携帯におめでとうメールが一件しか入ってなかった上、実家に帰ったら、家族は僕の誕生日のことを完全に忘れていたんですよ(注:両方とも実話)」
「私だって似たようなもんですよ」
「いえいえ、篠崎さん、ホントありがとうございます」
背筋を伸ばし、藤井はベッドに座ったまま深々とおじぎをした。
「いやだ、そんな改まって言わなくてもいいですよ(笑)」
そう言うと、彩子は少し逡巡するような表情を見せ、
「あの...本当のことを言いますと...私に藤井さんの誕生日を教えてくれたのは、麗子先生なんですよ」
「え」
間抜けな声で藤井は反応した。
彩子はケーキの入った箱を見つめながら続ける。
「予定が合わなくて今日は来れないとのことで、麗子さんご自身でケーキをわざわざ注文してくれて」
「そうだったんですか...」
藤井の中に何か熱いものがこみ上げてきた。
「篠崎さん、ケーキ食べましょう!」
彩子はニッコリと笑って頷いた。



とまぁ、基本的に、上記のような文章を、ほぼ毎日のように書いていたのだが、我ながらよくこんなことを毎日書いてたな、と思う。極私的妄想劇場を読んでわかるように、大学時代は、今は無い闇の妄想パワーがあったのかもしれない。


余談。
今の奥さんと付き合い始めて一年目に、奥さんに宛てて書いた手紙の下書きが出てきたのだが、これについては、あと数十年は寝かせないと飲めない感じの仕上がりになっていたので、いつか飲めるときがきたら解禁しようかな、と思っている。

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