ラジオ番組の最終回について

ラジオ番組の最終回についての話。

先日、『ナインティナインのオールナイトニッポン』の最終回を聴いて、「ああ、ラジオ番組の最終回ってこんな感じだったなぁ・・・」と少しセンチメンタルな気持ちになったのと同時に、"ラジオ番組の最終回を真っ向から受け止める"ということが、社会人になってからほぼ皆無になったことに気付いた。"真っ向から受け止める"というのは、番組の聴き始めの頃からそのままずっと熱心に番組を聴き続け、ヘビーリスナーのまま最終回を迎えるということだ。

新しく番組がスタートしたときに、パーソナリティから「最後まで一緒に走ろうね!」と肩を叩かれ、「うん!モチロン!」と元気よく返事をしたものの、あえなく途中リタイアした番組は星の数ほどある。しかし、ゴールテープを一緒に切り、涙を分かち合った番組というのは極めて少ない。特に、ここ数年は「あれ?いつの間にゴールしてたの?」と、番組の終了自体を知らなかったことすらある。最終回までずっと聴き続けるというのは、番組に対する深い愛情が必要なのはもちろんのこと、私生活において肉体的・精神的な余裕がないと難しい。

『毎晩、寝る前に必ず30回腹筋をする』ということを習慣づけるのが難しいように、番組を聴くことを完全に日常生活に溶け込ませるには、非常に長い時間が必要だ。
まず、聴くことが習慣になるまで、自分の中のオモシロ周波数と番組のオモシロ周波数がシンクロし続けなくてはならない。ずっとシンクロし続けていていれば問題ないのだが、年齢による価値観の変化だったり、番組の方向性の転換だったりで、途中、周波数が合わなくなり、聴くのをやめてしまうことが、ままある。また、それ以外にも、進学や就職活動など、私生活で大きな変化が起こった時に、止むを得ず聴くのを断念することもある。まぁ、大方は後者だと思うけど。特に、就活を機にラジオを聴くのをやめるという人が多いように感じる。

かくいう私も、就活を境にラジオ番組から離れた時期がある。高校の頃アホみたいに熱狂して聴いていた『コサキンDEワァオ!』ですら、番組の後半は就活の時期と重なり、結局そのままフェードアウトしてしまった。うろ覚えだが、最終回もまともに聴いてなかったと思う。コサキンリスナー失格である。
で、それから何年かして、投稿を再開したのを境に、またラジオを聴き始めたのだが、サラリーマンとしての生活リズムもあり、習慣的に聴くラジオ番組はめっきり減ってしまった。今、必ず聴くラジオは、TBSラジオの『JUNK』の月火木と、文化放送の『洲崎西』ぐらいである。放送第一回目から聴いていた『A&G超RADIO SHOW~アニスパ!~』も、随分前に聴くのをやめてしまったし、毎週欠かさず聴いていた『田村ゆかりのいたずら黒うさぎ』も、最近はあまり聴けていない。
経験上、「録音して、後からまとめて聴こう」と思ってる番組ほど、リタイア率が高い。逆に、「絶対にリアルタイムで聴く!」と決めている番組は、未だに継続して聴いている。これはラジオに限らないかもしれない。

そんな現状と比べて、自分が学生だった頃は、ラジオなしでは生きていけないほどラジオを聴いていた。そして、自分が愛聴していたラジオ番組が終わるときは、本当に悲しかった。
学生の頃というのは、テレビでも本でも音楽でもそうだが、何か1つのことに傾倒して、「これが自分の全てなんだ、これがなければ生きていけないんだ!」と錯覚することが多い。それが、いわゆる中二病の温床になったりするのだけれど、ラジオというのは、とりわけ自分を投影しやすい媒体で、『自分とパーソナリティは心と心で繋がっている』だとか『私の本当の居場所はここだけ』だとか、投稿が読まれた日には『こんなちっぽけな自分の存在が証明された』みたいな、BUMP OF CHICKENの歌詞のようなことを考えたりして心が高揚し、自分一人の世界に入るという病状が多数報告されている。
で、そういった状態でゴールテープを切ると、何もかもを失ったような喪失感が重く心に圧し掛かり、生きる意味を見失う、というレベルまで心が沈むことになる。そんなことを何度も何度も繰り返して、人は大人になっていくのである(違)。

ナイナイのオールナイトの最終回では、出待ちが何百人もいたらしい。これを聞いたときに「深夜の馬鹿力とか、爆笑問題カーボーイが終わったとき、果たして自分は出待ちに行くのだろうか」と考えたが、おそらく出待ちには行かず、部屋を真っ暗にして、ヘッドホンを付け、高校時代と同じスタイルで聴き、そのまま寝るんだろうな、と思う。それが、一番自分らしいかな、と思う (多分、これは中二病)。