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生きる

「表面だけ見ると、周りは楽そうに生きてるけど、やっぱりみんな大変だし、生きるのに一生懸命なんだよね」

といった話を、最近した。そのときは、「ああ、確かにそうだよなぁ」と、しみじみ感じずにはいられなかった。年齢的なものもあるのだろうが、このところ、そんなことをよく思うようになった。
ふてくされてばかりの十代を過ぎ、ふんべつをついて年をとり、あれよあれよという間に、甥っ子からオジサンと呼ばれてもおかしくないぐらいの年齢になってしまったが、心なしか、生きることに対して一番めんどうな時期に差し掛かったのではないか、と思っている。

『生きる』というのは本当に大変だ。

生きる、と聞いてパッと頭に思い浮かぶのは、谷川俊太郎の『生きる』という詩だ。
タイトルだけ見ると、どこか哲学めいたものを感じさせるが、そういう堅苦しいものではなく、「生きているとはこういうことなんだよ」と読者に「生きている」ということの具体例を提示することで、読者自身に生きることについて考えさせる、といった内容になっている。
震災を機に、様々な場所でまた読み直されているという話を聞くが、50年以上も前に作られた詩が、今もなお読まれているというのは、それだけ内容が普遍的なのだろう。
この『生きる』という詩は、たまに、ふと読み返したくなって、ぼんやり眺めたりすることがある。自分が今、生きてることに対する実感というのだろうか、日常生活の中で当たり前になっている様々な事象を、そのまま日常の中に埋もれさせるのではなく、その一瞬一瞬が、かけがえのない大切なものだと再認し、「ああ、自分は生きてるんだなぁ」と、新しい明日への活力に・・・みたいなことを書きだすと、とたんにきな臭い方向に行ってしまうのだが、それでも、たまに、生きることについて考えることは、悪くはないと思う。

ちなみに、この詩を読むにあたって、未だに謎なのが、
「いま生きているということ それはミニスカート」
と、詩の序盤から、いきなり『ミニスカート』という、中学生男子だったらそれだけで御飯が1杯食べられそうな単語が出てくることだ。
スタバにノートPCを持ち込んであれやこれや考えていた谷川俊太郎が、午後の授業をサボってたむろしている女子大生の太腿を見ながら、「ああ!これだ!」と、思いついたのだろうか。もしくは、『ライナスの毛布』よろしく、常に片手にはミニスカートを抱えて生活していたのか。はたまた、谷川俊太郎の主食がミニスカートだったのか。真相は分からない(おそらく美しいものを表す比喩的なことなんだろうけど、十数年経っても、これだけ耳に残っているということは、それだけでもう、谷川俊太郎の勝ちなんだろうな、と思う)。

私がこの詩を知ったのは、小学六年生のときだった。
卒業式の後に行われた六送会(六年生を送る会)で、自分を含む六年生一同が、保護者、及び先生の前で『生きる』を朗読した。一節ごとに一人ずつ担当が割り振られており、
「いま地球が廻っているということ」
「いまどこかで兵士が傷つくということ」
と、生徒が順番に大きな声で呼びかけする、という内容だった。
この『生きる』の呼びかけの練習時のエピソードで、かなり鮮明に覚えているのが、「かたつむりははうということ」担当だった鶴巻君のことである。
詩の終盤に「かたつむりははうということ」という一節が出てくるのだが、鶴巻くんの「かたつむり」のイントネーションがどこか変で、思わず皆が「フフフッ」と笑い出してしまう、という事態になった。鶴巻くん本人は、別に皆を笑わせるつもりなど毛頭なく、「え、何がおかしいの?」と、キョトンとしている様子だった。

この後は、NG大賞でよく見られる、『ツボにハマった女優が噴き出すのを堪えきれずにNGテイクを繰り返す』と同じような流れになり、何度やっても、鶴巻くんのところで引っかかって皆が笑い出すようになり、最終的に鶴巻くんが泣き出すというところまで発展し、ついには「鶴巻くんのところで笑わないように!」と、先生から指示が入るようになった。その指示が入ることにより、鶴巻くんがより泣いたのは言うまでもない。
まさに、「生きるのは泣けるということ」を体現していた。
先日、道端で「いやだー!」と大声で泣いて、母親から叱られている子供を見かけたが、そのときは「大人になったらもっとイヤなことが死ぬほどあるよ」と心の中で呟いて、心の中でそっと少女の頭を撫でてやった。生きているとイヤなことも多いが、それを声に出して言うと、余計にイヤなことになって自分に降りかかってくる。

最終的に何が言いたいかというと、「ピエロだって舞台裏では泣いてるんだよ」みたいなことを考えながら人のtwitterを見ると、切なくなるのでやめよう、という話。