ネット発信の言葉に対する距離の取り方

日々、ネットの海をあてもなく泳いでいると、色んな言葉、言い回しに出くわす。

2013年、2014年のネット流行語大賞から、いくつか例を挙げると、『バカッター』『あ・・・(察っし)』『ほんとそれ(ほんとこれ)』『「やっとあえたね」』『そっとじ』『草不可避』『壁ドン』『このあと滅茶苦茶セックスした』『オタサーの姫』などなど。既に死にかけている言葉もあるが、2015年現在、まだ割と見かける。
こういった俗語の卵が生まれたときに、それを抵抗なく受け入れ、自分の言葉として使える人・使えない人が世の中にはいると思う。

自分はというと、どちらかと言わなくても後者に属しているということは、このブログを読んで頂いている方には自明の理だろう。どうしてもライト感覚で使うことができない。といっても、人とのコミュニケーションにおいて、相手がその言葉を普通に使ってきたとき、頑なに拒絶するのは大人として如何なものか思うので、そういった場面では使うこともあるが、自ら率先して使うことは、まずない。これはおそらく、自分が普段使用している脳内辞書にその言葉を新しく書き込むことで、何かしら脳にバグが生じるのではないか、という不安を脊髄反射的に感じているからだと思う。

人間の脳なんていうのは、よくできているようで、実はだいぶ適当だったりするので、変なゴミが紛れ込んだときに、誤作動しないとも限らない。聞くところによると、人間の脳は、実際に口から発した言葉通りに体を操作してしまう、ということが証明されてるらしい。例えば、全然楽しいと思ってなくても「いやー、今日はとても楽しかった!」と何度も口にすると、脳がこの言葉を読み取って、自律神経系がこれを現実にするんだとか。ということは、「私は桐谷美玲なのです」と毎日鏡に向かって言い続けていれば、もしかしたら桐谷美鈴になれるかもしれない。体は荒俣宏、心は桐谷美玲みたいな (完全に余談だが、昔、Qさまの前身番組で、自分を松浦亜弥だと思い込んでいるオッサンが出た回を思い出した。ギリギリだったなアレ)
「言葉には魂が宿っている」と言うが、そういう意味で、これはあながちウソではないと思う。

で、そんな新語を全く受け付けない頑固脳なのだが、10年ぐらい経つと「ああ、これは完全に一般用語化したな」と書き込み要求を受け付けてくれるようだ。例えば『アウェイ』(2005年生まれ)や『アラサー』(2006年生まれ)などなど。この辺の言葉は、既に、造語という意識がないほど一般用語化していると思う。

去年あたりから一般用語の領域に片足を突っ込んだと思われる『リア充』という言葉があるが、これは「(いわゆる世間で言われているところの) 」といった枕詞を、心の中でそっと頭につけてないと、正直まだ口にするのが恥ずかしい。自然に口にできるまで、あと5年はかかりそうだ。まぁ、5年後には、その言葉自体が死んでるような気もするけど。

ネット発信の言葉そのものに対する違和感もあるのだが、それよりも、『ネット発信の言葉を何の違和感もなく使う人たち』に違和感を覚える。
これは別に、コミュニティ内部での共通言語、いわゆる仲間内だけでの流行り言葉みたいなものを、閉じた空間の中で使う(例えば、何かのアニメが好きで、そのアニメに出てきたセリフや、特有のネタを仲間内で話す)ような場合は、全く問題ない、というか、それは極めて自然なことだと思う。むしろ、それは自分もするし。
その仲間内だけで流行っている言葉を、さも「みんな、知ってるよね?」的な感じで公の場で使うことや、その元ネタをよく分からないのに、なんとなくノリで使ってる人を見ると、「うーん」となるのである。まぁ、新しく生まれた言葉なんてものは、そういう風にして、徐々に浸透いくものなのだと言ってしまえばそれまでなのだが、やっぱり何か心にひっかかるものがある。

以前、ネット用語に対して某ラジオ番組で、爆笑問題の田中さんが「『ワロス』ってなんだよ、もうホント気持ち悪い」と言っていたり、オードリーの若林さんが「『~ですね、わかります』って言い回しあるじゃん。何あれ?気持ち悪い」というようなことを言ってた。別に、これに完全同意するわけではないが、ネットを殆どしない人からしたら、そういう得体の知れないものを見るような感じに映るということだ。ただ、実際、こういう人たちは、そういう目で見られている自覚があって使っていると思っている。その辺の自覚がなくなるとまずい、という話で。

と、色々言ってきた私だが、妖怪ウォッチに少しハマってた頃、コマさんがたいへん可愛かったので、色んな人に「もんげー!」を使っていた。しかし、これは完全に妖怪のせいなので全く問題ない。