2000年代のラジオ投稿者同士の交流よもや話

先日のアメトーークで放送された『大学お笑いサークル芸人』を観て、自分が学生時代にラジオ投稿をしながら他のラジオリスナーと交流していた頃のことを色々と思い出し、久しぶりにブログを更新しようと思い立った。

投稿していたときの自分の胸の内については、別記事のラジオ投稿記で割とガッツリ書いているので、今回は主にネット上でのラジオ投稿者との交流、特にインターネット黎明期である2000年代初頭の思い出について書きたいと思う。
あと、『大学お笑いサークル芸人』で、全く知らない芸人の名前がポンポン出てくるのが妙に面白かったので、今回の記事では意識的に人のラジオネームを出している。「勝手に名前を出してんじゃねーよ!」と罵声を浴びせてくる方もいるかもしれないが、そこはご容赦願いたい。


ツイッターで番組の放送中にハッシュタグをつけて実況したり、同じ番組を聴いてるリスナーを見つけて繋がったりするのは、今でこそ当たり前になったが、私が初めてネットに触れた当時は、そんなことができるサービスはまだ存在せず、個人ホームページやレンタル掲示板、チャットぐらいしか交流する手段がなかった。そして、今のようにお手軽にホームページが作れるサービスもなかったので、みんな必死にHTMLを覚え、決して機能性が高いとは言えないエディタを駆使しながら思い思いの家をチマチマ作っていた。「誰かを家に招く」か「誰かの家に行く」しか選択肢がなかったのだ。ちなみに、ホームページのサービスとしては、ジオシティーズインフォシーク辺りがよく使われていた。掲示板ではteacupが多かったかな?

 

当時はまだradikoもなければYoutubeもなかった。だから、というわけでもないが、番組の書き起こしを行っているファンサイトが沢山あった。書き起こしといっても、『愛の無い書き起こしサイト』と揶揄されている某所とは違い、どこのファンサイトも番組愛に溢れており、「番組を聴いたことのない人にも、この面白さが伝わってほしい!!」という管理人の熱量が伝わってくるサイトばかりだった。
というわけで、当時、私がよく入り浸っていた素敵なファンサイトを思い出せる限り紹介していきたいと思う。よく足を運んでいたのが爆笑問題系と伊集院系のファンサイトだったので、今回はその辺を重点的に。


爆笑問題

当時の代表的な爆笑問題カーボーイのファンサイトというと、『爆笑問題非公式ファンクラブ』『バクショウモンダイカーボーイリスナーズスタジオ』『ひきこもりSTATION』『CD田中リサイクル』辺りだろうか。
今は、R.N 今に見てろドッカーン!さんが自身のホームページで採用数の集計をされているが、もともとは爆笑問題非公式ファンクラブ内の『爆笑問題カフェ』という掲示板の常連の方々が協力して集計していた。そこからR.N JR時刻表マニアさんが管理人を務めていた『ひきこもりSTATION』に引き継がれ、そこからさらにR.N ステイゴールドくんのブログ『ステイゴールドの日常』に引き継がれ、今に至るという流れだ (私もこの辺は記憶が怪しいので、間違っていたら誰か補足してほしい)。伊集院系もそうだが、採用数集計サイトには歴史があるのだ。

 

で、これらのサイトの中だと、自分と同世代の方が多かった『ひきこもりSTATION』を訪れる頻度が高かった。昭和58年会の会員の方がたむろしており、いつも賑わっていた。管理人のJR時刻表マニアさんが昭和58年会の会長だった。
『CD田中リサイクル』は、R.N オングストロームさんが管理人を務めるCD田中のコーナー専用のサイト。爆笑問題カーボーイではお馴染みのCD田中のコーナー内で読まれたネタや、ボツネタなどの書き起こしを行っていた。CD田中を書き起こすということは、必然的に歌謡曲の歌詞の一部分をホームページに載せることになるのだが、歌詞を載せるためだけに、わざわざJASRACにお金を払っていたらしい。コーナーに対する熱い思いを感じる。オングストロームさんには、昔のバラエティ番組の録画ビデオを送ってもらったりと、何かとお世話になった。

 

カーボーイの常連の方は、ネット上に姿を現す率が低かった。ネット環境的なこともあるのだろうが、番組で毎週のようにネタを読まれてるような超常連の方がネット上に現れることは稀だった。

その中でも、ファンサイトの掲示板でよく絡ませてもらったのは、当時、番組内で謎の忍者として投稿していたR.N 謎の忍者・岩崎トシヒデさん。忍者を謳ってる割に掲示板にはよく出没していた。あと、爆笑問題カーボーイで『田中の弟子のコーナー』が始まって間もない頃に、現・タイタンの作家で当時はまだ投稿者だった野口悠介さんが、ファンサイトの掲示板に訪れることがあった。ただ、投稿者とはいえ、作家に半分片足を突っ込んでる人間がファンサイトの掲示板に書き込むのはいかがなものだろう、という意見も少なからずあった。この辺の距離感というのは難しいものだな、と思う。


伊集院系

伊集院系のファンサイトは、かなり活発に活動をされているところが多かったのでサイト毎に紹介する。同じJUNKの並びの爆笑問題コサキンなどと比べると、伊集院系の投稿者は割かしネット上に姿を現す率が高かったように思う。そういう資質を持った方が多いのだろうか。

 

イジューインホリック
ラジオ投稿記の馬鹿力編でもチラッと触れた、伊集院系サイトの最大手。リスナーの交流が一番盛んだったのは、ここの掲示板とチャットだったと思う。オフ会も定期的に開催され、地方組の私も何度か参加させてもらった。ほぼ唯一の地方組ということもあって、ホリックの管理人でもあるRN ここはグリーンスタジアムさんに東京案内して頂いたこともあった。当時のオフ会で知り合ったリスナーの何人かとは、その後、番組関係なく普通に遊ぶようになり、今でも関係が続いている。学生時代にできた友達は一生モノだなぁと思う。
深夜の馬鹿力というと男村のイメージがあるが(当時は特に顕著だった)、珍しいことにオフ会に顔を見せる女性リスナーも少なからず存在し、そこから色恋沙汰に発展したなんて話もいくつかあった。こういうのはラジオ番組オフとか関係なく発生するもんなんだな、と思ったりした。
 
最大手のサイトということもあり、2chのラジオ番組スレで槍玉に挙げられることもしばしばあった。当時を知る人なら間違いなく覚えていると思うが、『三遊亭事件』という番組を巻き込んだ軽い騒動があった。発端は、名誉管理人のRN.恐怖のミソ汁さんの「みんなでちょっとした遊びをしてみませんか?」という呼びかけだった。で、その遊びの内容というのが、番組に投稿する際、ラジオネームの頭に「三遊亭」と付けるというものだ。それだけのことだった。それだけのことが割と大きめの炎上につながったのである。というのも、当時常連投稿者だった、R.N おて手つないでさん、R.N ふしだらを声高さん、R.N 倉茂秀行さん等がこの遊びに参加したことにより、1回の放送で採用されるラジオネームで、頭に「三遊亭」が付く率が異常に増えたのである。
この遊びについては、伊集院さんも流石に少し気に障ったようで、2001年7月23日の放送回で、「続いてはですね、えー、ペンネーム三遊亭...三遊亭つけるの流行ってるらしいんですよ。なんか分かんないですけど多分ネットとかで流行ってるんでしょうね。別に面白くはないですけどw」という発言を残している。リスナーに向けて直接こういうことを言うのは前代未聞だった。しかも、このときに読まれたネタが私のネタだったので(私も遊びに参加していた)、このときのことは鮮明に覚えている。
今改めて考えても、「投稿者同士が知らないところで何やってるの?」という感情を他のリスナーに抱かれても仕方ないよな、と思う。この遊びを知らないリスナーは「三遊亭って何?」ってなっただろうし。当時はその分別がついてなかった。1年ほど前に、『かが屋オールナイトニッポンZERO』で、常連リスナーに根回ししたヤラセ企画がプチ炎上したが、その回を聴いたとき、このときのことが少し頭をよぎった。
 
■動力板
ここはリスナーというより、投稿者寄りの掲示板だった。管理人はR.N 動かす力さんで、この方も当時の常連さん。
この掲示板に関してだけは、最初、書き込むのにかなり勇気がいった。というのも、ここは特に常連投稿者の方が多く、自分のような若輩者が書き込んでいいものかという葛藤があった。いつも「返信をもらえなかったらどうしよう」とか「面白くないやつだと思われたらどうしよう」といったネガティブな思いを抱えながら投稿ボタンを押していた。そんなことを思わせるくらいエッジの利いたやりとりが繰り広げられていたのだ。
今、bayfm『9の音粋』月曜日DJ枠を担当されているRN.大村彩子(ミラッキ、大村綾人)さんもよくここに書き込まれていた。ご本人のホームページもちょいちょい覗かせてもらっていたが、「多分この人は作家になるだろうな」と当時から思っていた。面白いことを追い求める姿勢と知識がズバ抜けていたし、社交性と人脈を兼ね備えていた。所謂ハガキ職人という人種は、後者の能力が圧倒的に足りないイメージだが、おそらくそこが作家になれるかなれないかの境界だと思う。
大村さんとは、私が2012年にNHKラジオ『ハガキ職人のウタゲ』に出させていただいたとき、番組のメイン作家ということで初めてご一緒させてもらった。中高生のときにラジオでよく耳にした人の番組にゲストとして出るなんて...と感激したのを今でも昨日のことのように覚えている。ちなみに、番組が始まる前に少し時間があったのだが、そのときに「藤井さんにはこれね」と週刊将棋を渡してもらったのが嬉しかった。お互い将棋ファンなのである。
 
■NEWラジパラザウルスの伊集院光閉架書庫

深夜の馬鹿力の伝説のハガキ職人R.N アオミドロさんと並び、番組の第1回採用組であるR.N NEWラジパラザウルスさんのホームページ。ここの『ボツネタ公開裁判所』に集う投稿者の方が多かった。
名前の通り、ボツネタを書き込む用の掲示板なのだが、ボツとは思えないほどクオリティの高いネタもよく投稿されていた。それだけに、書き込まれたボツネタの中に、
復活採用(投稿して期間が空いてから採用されること。馬鹿力では割とあるある)されるネタもちょいちょいあった。
私もボツになると(というか当時はほぼ全てボツだったのだけど)よくここに投稿してネタを供養させてもらい、皆様からの暖かいリプによって励まされていた。ちなみに、この掲示板のリプ欄に伊集院さん本人が登場し、「おかしいなぁ、読んだ覚えないぞ」(内容はうろ覚え)といった書き込みをしたという逸話が残されている。これについては、調べたところ、本人じゃないと言い切れないとのことだった。

 


交流という面ではこの3つのサイトが主だっただろうか。他にも、書き起こしの大手である『イジューインネット』や『脳汁』、採用数集計大手の『名もなきページ』をよく訪問していた。
伊集院リスナーの個人ホームページだと、R.N まげまげさん、R.N 一般人mkさん、R.N 永世棋聖さん、R.N あおいさかなさん、R.N カツ丼で村おこしさんのとこを見に行くことが多かった。あ、あと、ナンパした女性の写真をアップしてるリスナーのサイトもあったりしたのだが、ある意味貴重なサイトということでちょいちょい見に行っていた。知ってる人はマジで一部だと思うが、一回でも行ったことのある人は絶対覚えてると思う。


その他、よもや話

 

当時、AMラジオを聴いていたら絶対に一度は耳にしたことのある1人に、R.N すてきなバカさんという方がいた。そのすてきなバカさんが管理人を務めていた『すてきなバカのスタレビ村』は、名古屋系の投稿者の溜まり場だった。
今でいうと、サンドリの投稿者に持つイメージなのだが、名古屋系の投稿者にはアナーキーで少し怖いイメージがあった。そういうこともあり、自らスレッドを立てて書き込むことは少なかったが、自分にとって良い刺激になっていたのでよく顔を出させてもらっていた。キリ番を取ったときに、すてきなバカさんから某包茎関連クリニックの広告がプリントされたTシャツを貰ったのも良い思い出だ。
ちなみに、今はアニラジの作家としておなじみのふかわげんき氏も、当時この掲示板によく顔を出していた。まだ高校生だった当時から「作家になりたい!」とよく言っていたので、晴れて作家になったと知ったときは、「ホントに良かったねぇ」という親心にも似た感情を勝手に抱いていた。今改めて思い返すと、「作家になりたい!」と強く外に向けて発信していた人は、結構そのまま作家になっているケースが多い気がする。
最近だと、深夜の馬鹿力の投稿者のR.N 点と線くんが作家になったが、彼も熱量がすごく、物事にストイックに向き合うタイプの人間なので、馬鹿力の作家になったと聞いたときもそこまで驚かなかった。

 

昔からTBSラジオっ子の私であるが、一応オールナイトニッポンもちょくちょく聴いていた。ただ、個々の番組に対してそこまで思い入れもがなかったこともあり、LF系のファンサイトに足を運ぶことは殆どなかった。そのため、LF専門の投稿者とは当時も今もそれほど交流がない。

当時インターネット上では、ニッポン放送をメインに活動する『メディアギャング』というハガキ職人の集団がいて(これを覚えてる人ホントに少ないと思う)、その人たちがニッポン放送の夜を賑わしていた。そういうチームを作るという意味でも、なんとなくLFの投稿者の方が横の繋がりが強い気がする。特に西川貴教ANN出身の投稿者勢は結束力というか仲間意識が強そうなイメージがある。自分が向こうの方に投稿してたらまた違った交友関係を築いてたんだろうな、と思う。ちなみに、ニッポン放送では、当時の流行りなのか、R.N サービスカード高柳さんを筆頭に「カタカナ+苗字」というフォーマットのラジオネームの方がやたら多かったのを覚えている。

 


インターネット老人会~ラジオ投稿者編~』といった感じの内容になってしまったが、ちょうどこの頃がネット上で投稿者同士が交流する黎明期で一番楽しい時期だったので、この頃の思い出がとにかく多い。
この時代特有のインターネットの空気感を共有した人たちとは、今後も変わらず繋がっていきたいなーと、ラジオ好きお爺ちゃんは思っているのであった。