ニシエヒガシエ

「もう少し勉強しておけば良かったな」と昔を振り返ることが、たまにある。
かといって、今更、学生に戻るのは死んでも御免なのだが、仮に勉強をやり直せるんだったら、小学生ぐらいからやり直したい。おそらく、その辺の時期に染みついた勉強に対する姿勢や考え方が、今の自分の中途半端な学力、延いてはダメ人間気質に繋がっている気がする。

学力というのは、基礎知識の蓄積で成り立っているものであり、土台がしっかりしていないと、その上に乗る応用的な知識も、非常に不安定な代物になってしまう。極端な例を挙げると「左」と「右」を幼稚園のときに正しく覚えなかった人は「じゃあ次に、方角を覚えよう」というときに、躓くことになる。

こういった、応用的な知識を身に付ける上で、覚えなくてはならない素因数分解した言葉というのは、ただひたすら暗記するしかない。この段階で躓くと、非常に面倒なことになる。「右って何?」と聞かれたところで「昔の人がそう決めたことだから」としか答えられないし、「何って何?」みたいなことを言われたら、これはもう禅問答の領域だ。もしくは、「お、キミ、詩的だね」なんて言ってしまいそうになる。プリミティブな言葉というのは、往々にして由来がハッキリとしないものだ。興味を持って覚えろ、という方が無理な話かもしれない。
脳内辞書で割と初期の方に埋まるべき単語が、虫食い状態のまま成長していくケースというのは、決して稀ではないと思う。RPGで、最初の方に取るべきアイテムを、物語の大分後半になってから、「あ、こんなところにあったんだ」と見つけるみたいな感じ。

自分の場合、「左」と「右」は問題なかったのだが、「東」と「西」がダメだった。
恥ずかしい話だが、中学の始めくらいまで、東と西を割とあやふやに覚えていた。そのせいか、1度、地理のテストで目も当てられない程の点数を叩きだし、親に、こっぴどく叱られたことがあった。『太陽がどの方角から昇って、どの方角に沈むか』というのは、自分が通っていた小学校の校歌の出だしが「東の空に昇る日を~」だったので、自然と頭に刷り込まれていたのだが、「北を上、南を下、としたときに、東と西が左なのか右なのか」ということを、正しく理解していなかった。「北極を上として考えたときに、地球は反時計回り(左回り)で自転してるんだから、左は西だろ」と、中学生までに習った知識を総動員させれば分かりそうなものだが、その辺りが自分の中で繋がっていなかったんだろうな、と思う。
「知識は合わせて覚えた方が理解が深まるんだ」と、気付いた頃には、もうだいぶ大人になっていた。

そういえば、大学時代に物理の授業で、物体の運動の公式を導き出すのに、微分積分が登場したときには、「ああ!微分積分って、このために使うんだ!」と、少し感動した覚えがある。「この路地から入ると、この通りに出るんだ!」みたいな、頭の中で点と点が繋がる感じ。高校のときに張られた伏線が回収されたような気分だった。ロマサガ3だったら、間違いなく頭の上に電球が出ていた。
高校時代は、微分積分なんて、何のために勉強するのか全く分からずに、ただただ解き方だけを覚えていたが、先ずにこういうことを教えてくれればいいのに、と思ったものだ。いや、もしかしたら、教えられたのにスルーしていただけかもしれないが。

「どうして学ばなくてはいけないのか」ということを理解できるだけの知識を早く身に付けることが、イージーモードで人生を歩んでいく上で大事なことなのではなかろうか、と劇団員が言っているー。

時間泥棒のメソッド

ブログ名がデフォルトのままだったので、その場の思い付きで変えてみた。2週間ほど経ったが、いまいちしっくりこないので、気が向いたらまた変えるかもしれない。

で、本題。

最近、私の中で時間泥棒による被害が多発している。こういう風に書くと、自分に全く非がないように聞こえるが、むしろ逆で、「さぁさぁさぁ!どうぞ盗んでいって下さい!」と、自ら泥棒を招き入れてる感が強い。本当にどうしようもない。

「全ての諸悪の根源はネットに通ず」という、私が今5秒で考えた格言にもある通り、時間を食いつぶしているのは紛れもなくネットなのだが、その中でも、最近は、ソーシャルゲーム、いわいる「ソシャゲ」が地味に時間泥棒になっている。
この泥棒、やっかいなことに、家具や宝石類を盗むのではなく、五千円入っている財布から千円だけ抜いて、盗まれたことがすぐに分からないようにするタイプの知能犯で、非常にタチが悪い。急に時間が消えるのではなく、アハ体験よろしく、徐々に時間が消えていき「あれ?どこが変わったか全然分からない!」みたいな感じで紛れてしまう (全く関係ないが、今「アハ体験」が、誤変換で「アハ大剣」になった。おそらく「ひのきのぼう」にも劣る攻撃力だと思われる)。

今まで食わず嫌いで、ソシャゲを全くやったことがなかったのだが、先日スマホを買い替えたことを契機に、「クイズRPG 魔法使いと黒猫のウィズ」と、「ドラゴンクエストモンスターズ スーパーライト」を落としたのがそもそもの始まり。そして、案の定、空き時間ができると、ついついアプリを起動してしまう程度にはハマってしまった。「あと2分だけ待って魔力が1回復すれば1回クエストができて、そのクエストで得た経験値でレベルが上がって魔力が全回復するから、寝る前にあと3回ぐらいクエストできるかな・・・」等と無意識に考えている自分の脳が恐ろしい。

ソシャゲをしているときの感覚は、気泡緩衝材(プチプチ)を潰しているときのそれに近い。心理学用語で「アフォーダンス」と言うらしい。サクッと調べたところ「人をある行為に誘導するためのヒントを示す事」とかなんとか、小難しい説明が色々と書かれていたが、ようは、蚊に刺されて腫れた部分に爪で跡をつけたくなったり、非常ベルのボタンを押してみたくなったり、イソギンチャクに男性器を突っ込みたくなったりと、まぁそんな「ほらほら!○○してごらんなさいよ!」と物質自身が人に何かをアフォード(主張)する、みたいなこと。
で、そういった人の抗えない気持ちに付け込んで、「クイズに答えて!」とか「ガチャを回して!」、「ボタンを押して!」と、際限なく私を誘惑してくるのである。私は抵抗するすべもなく、来る日も来る日も、クイズに答え、ガチャを回し続けている。ガチャ回しロボットである(そんなロボットは廃棄にしてしまえ)。

ただ、自分の中の最終防衛ラインとして、「課金だけはしない」と心に決めている。金を払うこと自体が嫌なのではなく、払った瞬間にゲームが面白くなくなってしまうから、というのが理由だ。俺西先生の名言にもある通り、「課金したら、そこでゲーム終了だよ」である(「俺ムダンク」8巻より抜粋)。

そのうち時間を盗まれるのに嫌気が差してやめるのだろうが、果たしていつまで続くのやら。まぁ、稀代の時間大泥棒であるツイッターに比べたらカワイイもんだけど。そういえば、以前にフォロワーさんで、突然ツイッターをやめられた方がいて、やめた理由を聞いたら「意外と時間をとられちゃうんですよね」と言ってて「ああ、エラいなぁ」と思った。
果たして、自分がツイッターから卒業する日は来るのだろうか。

もう3月

「もう中学生」の芸名が「もう3月」だったら売れてなかっただろうな、と、ボンヤリ考えていたら、時計の針が1時間ほど進んでいた。

世間では何万回も繰り返し言われてることだが、20歳を超えたあたりから、本当に時間の流れが異常に早くなった。ついこないだ年が明けたと思ったら、もう3月半ばになろうとしているし、昨日ブログを更新したかと思ったら、2週間も経っている。あれほどテレビで目にした芹那もいつの間にかテレビから姿を消したし、ピエリ守山のテナントも完全に消えてしまった。そして、ビットコインも。恐ろしい。
聞くところによると、生まれてから20歳になるまでの体感時間と、20歳になってから死ぬまでの体感時間は同じらしいが、あながち間違っていないのではないかと思えてくる。

3月というのは別れの時期だ。
技の1月、力の2月、別れの3月。この中では、3月が最も男気に溢れ、仲間想いで情に厚い。しかし、物語の中盤、身を挺して仲間を守り、涙の死を遂げる悲しい3月。そして、悲観にくれる残された2人の元に、出会いの4月が加入することになるのだが_それはまた別のお話。

で、その3月。

私が今勤めている職場でも、3月いっぱいで退社する方がいる。先日、定番の寄せ書き用の色紙が回ってきたので、一言だけ書かせてもらった。といっても、あまり面識のない方だったので、テンプレ的なことしか書けなかったが。
お別れのときに色紙を渡す文化が、海外にもあるのかは知らないが、「まぁ、面識ないけど、とりあえず何か書いておけばいいか」で書けちゃうのは日本人だけのような気がする。小学生のときに、あまり話したことのない同窓生が転校するときに「転校先でもがんばってください」と右へ習え精神で思ってもいないことを書く子供が成長して、「新天地でも、より一層のご活躍をお祈り申し上げます」と書く大人になっただけだ。根っ子の部分は何も変わっていない。

自分の身の回りのこと以外にも、3月は番組改編期ということで、色んな番組が終わりを迎える。

先日、このブログにも書いたように、「笑っていいとも!」も終わるし、数多くの芸人を輩出してきた「爆笑オンエアバトル」も3月いっぱいで終わるらしい。
オンエアバトルは、もう観なくなってしまったが、学生の頃は欠かさず観ていた番組だっただけに終わるのは寂しい。「アンタッチャブルの漫才って、こんなに面白いんだ!」と気付かせてくれたのもこの番組だったし、会場の評価と視聴者の評価は必ずしも一致しない、ということを教えてくれたのもこの番組だった。番組終了について、珍しくラーメンズのコバケンさんも自身のHPで昔を振り返りながらコメントを出しているようだ。
NHKでいうと、「妄想ニホン料理」が終わるのも残念だ。簡単に言うと『「やって!TRY」の海外プロ料理人編』みたいな内容の番組なのだが、出来上がった料理以外にも、その国の風土や文化についても触れることができて、観ていて楽しかった。必ずチェックしていたわけではないが、良質な番組だっただけに惜しいな、と思う。

で、テレビはそんな感じで、ラジオの方はというと、ニッポン放送のANN(オールナイトニッポン)に色々と動きがあるようだ。
自分としては、ニッポン放送の番組は殆ど聴かなくなってしまったので、改編に心が揺れることはない。ただ、AKB48のANNが「不毛な議論」の裏になったのは少し気になる。宮嵜プロデューサーもツイッターで冗談っぽく言っていたが、本当にロミオとジュリエット状態だな、と思った。汚いロミオだけど。

正直、ラジオに関しては、自分の年齢的なものもあるのだろうが、「たとえ番組が終わっても、何らかの形で、その後も、そのパーソナリティの声が聴ければいいかな」と、考えるようになってきたので、好きな番組が突然最終回を迎えても、気持ちが沈んで悲観的になることは、そんなにはないと思う(多分)。番組への興味が薄れてきたのではなく、その人に対する愛情が深まったと解釈している。

と、3月になって色んなサヨナラがあるが、現実問題として、消費税5%とサヨナラするのが一番つらいところ。お、何かサラ川っぽいぞ。

爆笑問題との出会い

爆笑問題を初めてテレビで見たのは「ボキャブラ天国」だったと思う。

ボキャブラ天国とは、92年に放送が始まったタモリがメイン司会を務めるバラエティ番組である。番組開始当初は、若手芸人の「わ」の字もなく、視聴者から寄せられた投稿作品を、ゲストパネリストが品評するという、タモリ倶楽部の「空耳アワー」的な内容だった。ダジャレVTRを流して皆で笑うだけの番組なのだが、味のある映像作品が数多く作られ、当時、小~中学生だった私の心を鷲掴みにして離さなかった。「猿がバンパーのところで」など、部屋を転がりまわって笑っていた気がする(知らない人はお父さんお母さんに聞いてみよう!変な空気になるぞ!)。

放送時間帯の変更に伴い、番組のスタイルも徐々に変わっていき、素人参加型の番組から若手芸人がメインの番組へとシフトしていった。
初期のボキャブラのテイストが好きだった自分としては、若手芸人が出ることに対して、最初はどうしても抵抗があった。今になって思い返してみると、多分この頃は「若手芸人」という言葉すら知らなかった。芸能関係に疎かったんだと思う。まだ小さかったので、当たり前といえば当たり前だが、パネラー席の赤坂泰彦が若手芸人に突っ込みを入れることに何の違和感も感じないほど無垢な少年だった。そんなわけで、藤井少年の目には、「素人が何かワイワイ騒いでいるな」といった風にしか映っていなかった。

実際問題、世間的にも若手芸人が出ることは不評だったようで、番組はしばらく低空飛行を続けていたが、徐々に女子中高生を中心として若手芸人がアイドル的な人気を得ていき、いわゆる「キャブラー」とまで呼ばれるほどの社会現象になった。で、いつの間にか、自分も何だかんだで番組は欠かさず観るようになっていた。ぶつくさと文句を垂れながらもテレビは消さない、生粋のミスターテレビっ子なのである(CV:高山みなみ)。

そんな中、爆笑問題がいた。

最初、二人の印象は薄かった。小さくて声が甲高いツッコミの人と、ちょっと猫背で影のあるボケの人、ぐらいの認識だったと思う。他のキャブラーと比べると地味な二人だったので、最初の頃は、どちらかというと、華のあるネプチューンの方が好きだった。他の芸人との絡みを見て「ある程度ベテランの人たちなんだな」ということは子供ながらに感じていたが、過去に干されたことも知らなければ、GAHAHAキングで10週勝ち抜いたことも知らなかった。田中さんが、手淫するたびに自分のTシャツでチンコを拭っていた特殊な性癖など、もちろん知るはずもない (全く必要のない補足だが、手淫という言葉すら知らなかったと思う)。

ボキャブラがお茶の間の人気番組へと伸し上がっていく過程で、爆笑問題の知名度も上がっていった。その頃になると、自分も自然と爆笑の二人のことが好きになっていた(といっても「キャブラーの中では好き」程度だったが)。ネタ以外の部分での二人は、基本的に「太田さんが田中さんをチビ弄りする」というスタイルだったので、田中さんは自然と弄られキャラを確立していったが、逆に、これが枷となって、太田さんの良さがあまり出てなかったように思う。ヒロミさんが太田さんの代わりに田中さんに突っ込むことも多かったし、最初の頃は、「みんなのオモチャ」といった感じで、田中さんが一際目立っていた。「抱かれたくないキャブラー1位」という輝かしい実績も後に収めることになる。

そして、ボキャブラ人気にも陰りが見え始めた頃、爆笑問題ボキャブラから姿を消した。その頃には、既に他局でレギュラー番組をいくつか持っていたので、もう無理に出る必要もなくなったのだろう。ただ、チャレンジャーとして他の若手に混じって騒いでいる太田さんを見るのが好きだったので、正直、寂しかった。大座布団を抱えて1位の席に座っているときよりも輝いていたし、実際のところ、太田さん自身も「チャレンジャーでワイワイ騒いでるのが楽しかったから、メジャーに上がりたくなかった」と、ラジオで漏らしていたような気がする。

で、この時期に他局で始まったのが「号外!!爆笑大問題」だ。

この番組は、私が今まで観たバラエティの中で3本の指に入るぐらい大好きな番組だ。爆笑問題がレギュラーを務めた番組の中では一番好き。うちの親父も好きで、毎週必ず録画しており、私はそれを何度も何度も繰り返し観ていた。今でこそ、漫才やラジオなどで時事をバンバン切っているが、当時はそれらが全て新鮮だった。爆笑問題とニュース(特に有名人の失言)の親和性が高いということを、このとき強く感じた。
レギュラー出演者として、二人のことを昔からよく知る、コント赤信号のリーダーこと渡辺正行氏がいたこともあり、ラ・ママ時代の話がよく出てきた。二人の若かりし頃の思い出話を聞けたりと、爆笑問題のパーソナルな部分についても触れることができた。
この番組を通して、田中さんは、「常識人だけど、ちょっと抜けていることろがある、巨人・猫が好き」、太田さんは「高校時代は友達がいなかった、読書家、立川談志を尊敬している」、などなどの情報が私の脳に追記された。ただ、これも、あくまでテレビというフィルターを通した表面的な情報にすぎない。何も加工されていない二人の生の声は、まだ聴いていない。

そして、この番組をやっている最中に、TBSラジオの「爆笑問題カーボーイ」に出会うことになるのだけれど、それはまた別の話。

大雪

先週、今週と雪がすごい。20年に1度の大雪だそうだ。
東京に住んで7年近くになるが、都内でここまでの大雪は初めて経験する。
ツイッター上では、この珍しい大雪にお祭り騒ぎ的な雰囲気も感じられるが、自分としては、そのせいで大事な予定が何件かポシャっているので、久しぶりに「雪って嫌だな」と思った。昔嫌いだった同級生に再会して「ああ、やっぱりオレ、こいつのこと好きになれないな」と再確認するような感覚だ。
 
子供の頃は、庭を駆け回る犬のように、雪と触れ合うのが楽しかった。
友達同士で雪ダルマを作ったり、カマクラを作ったり、雪合戦をしたり、雪合戦で使う雪玉の中に石が入っていて学活の時間に問題になったり、学活の時間に高村さんが泣き出したり、先生が教務室に行ったっきり出てこなくなったり、と、雪にまつわる思い出は山のようにある。後半以外は良い思い出だ。
 
しかし、物心ついてからは雪が嫌いになった。何より、雪かきが死ぬほど嫌いだった。
 
基本的に、雪かきというのは楽しい要素が一つもない。ただひたすら苦行だ。赤毛のアンですら楽しい要素を見つけるのは困難だと思う。
私の実家は、車3台分の屋根付き駐車場があり、無駄にスペースが広い。少なくとも、その駐車場から家の前の道路までを除雪しなくてはいけないため、途方もなく雪かきが大変なのだ。雪をかいてるうちに、既にかいたところに雪が降り積もり、雪をかいてもかいても、また元の木阿弥になる。地面に穴を掘って、掘った土でその穴を埋め、さらに地面を掘って穴を埋め、を繰り返すというナチの拷問に限りなく近い。よく精神に異常をきたさなかったな、と思う。
 
今回の都内の大雪のように、一過性のものだったら我慢できるのかもしれないが、毎週のように雪かきをする身にもなってほしい。「可哀想に、こんなに冷たくなって、ほら、手を貸してごらん」と言って、自分のセーターの中に私の手を誘導して温めてくれる、石田ゆりこ似の人妻でも傍にいないと、とてもじゃないがやってられない。いや、むしろそれはしてほしいので、本末転倒になってしまうか。
 
雪かきもそうなのだが、実は、それとは別に雪が嫌いになった理由もある。大学時代まで遡ることになるが、それはまた別の機会に書くことにする。
 
最後に、今回の雪で、川口春奈の「JR SKISKI」ポスターのパロネタが、ツイッターで大量につぶやかれているが、なんというか、あれを言ったら負け感というか、火中の栗を拾わされる感がして、「ちょっと、もう触れないな」となっている。こういう類のものは、サバ並に足が早いな、と思う。そういえば、雪が降りすぎたため、JR東日本のサイトから、あのキャッチコピーも消えたらしい。

カレー

カレーが好きだ。週に3日以上はカレーを食べる。
カレーというのは、毎日食べても飽きることのない素晴らしい料理だと思っている。数字の0よりも、カレーを発明してくれたインド人に、心からの賛辞を贈りたい。

「えー、お母さん、またカレー?」と文句を垂れながらも、おかわりはしてしまう、それがカレー。しばらく食べていないと、急にカレー欲がムクムクと膨れ上がり、自然と足がカレーハウスに向いてしまう。麻薬的に、どうしても体が欲するのである。
体というのは正直で、自分の気持ちとは裏腹に反応してしまうものだ。明美の体もそうだった。そっと腰に指を這わせると、明美の華奢な体はビクンビクンと蠕動して、いやらしく蠢いた。明美は、焦点の定まらない目を私の方に向けると、次の刺激を求めるかのように股間に手を宛てがった。濡れた指先を明美の顔の前に持っていくと、恥ずかしそうに明美は頬を染めた。この、うら若き乙女のような反応は出会った頃から変わらない。さすが良家の令嬢といったところか。

閑話休題

カレーは大体「CoCo壱番屋」で食べる。家から一番近いという単純な理由で。
最初は、キノコカレーやほうれんそうカレーなど、色んなカレーを試してみたが、最終的に『野菜カレーの普通』に落ち着き、基本的に、それ以外は頼まなくなった。最近では、店員の方も気を利かせて、「いつものでよろしいですか?」と聞いてくる。もちろん、良かれと思ってのことだろうが、正直、恥ずかしいのでやめてほしい。恥ずかしく感じるのは、チェーン店だからかもしれない。これが個人経営の食堂とかだったら大丈夫だと思う。
(余談だが、うちの親父もココイチが好きで、働いていた頃は、しょっちゅうココイチに寄っては、一番安いポークカレーを食べていたらしい。最終的に、何も言われなくても、ポークカレーが出てくるようになったとか。その辺りは親子で似てるな、と思った。嬉しくはない。)

こういう風に、同じメニューばかり頼んでいると、色々と弊害も出てくるということに、最近になって気付いた。
まず、上記の通り、店員は完全に私のことを「カレーライスの女」ならぬ「野菜カレーの男」と認識しているため、「こいつは野菜カレーしか頼まない」と思い込んでいる。実際問題、野菜カレーしか頼まないのだから、それは正しいのだが、人間だし、たまには別のメニューを頼みたくなるときもある。

ココイチには期間限定メニューというものが存在する。何年か周期で復活する『グランドマザーカレー』は、(名前だけ聞いても分からないが、ようは野菜カレーに豚肉が入っただけ)「ちょっと肉も食べたいな」というときに頼みたくなる。
で、最近になって、またこのカレーが復活したのだが、これが非常に注文しづらい。いつも、口を開くと「野菜、普通で」しか喋らない客が、急に「グランドマザー、普通で」と言うのだ。店員は、おそらく「こいつ、何者かに脳神経を操られている」と思うだろう。自分が店員だったら、間違いなくそう思っている(そんな店員は社会に出てはいけない)。
こういう事態を避けるため、別なカレーが食べたいときは、極力、自分の顔があまり知られていない店員がシフトに入っている土日の昼間を狙って行くことにしている。しかも、その時間帯だと、深夜と違ってそれなりに混雑しているので、他の客に気を取られて、自分が野菜カレーの男だと悟られることはない(と思う)。全く要らない気苦労だな、と思う。

そのついでに、本当にどうでもいいことを、もう一つ。
ココイチでは漫画のレンタルを行っており、カレーを食べている最中、店内の漫画を1回に2~3冊まで借りて自由に読んでいいことになっている。1話完結型ではないストーリー漫画は一通り読んだので、基本的に普段は「美味しんぼ」を読むのだが、どうしても24巻の『カレー勝負』を取るのに躊躇ってしまう。理由は、店員から「あ、あいつ、カレーを食べてるから、カレーがテーマの回を読んでる」と思われそうで嫌だから。そのため、カレー勝負の巻の上に、別の巻を載せて隠しながら自分のテーブルまで運ぶようにしている。これも全く必要のない気苦労だ。自分の性格が嫌になる。

最後、終着点を見失って、カレーとあまり関係なくなってしまったが、要は「魔法のランプみたいな容器にルーが入って出てくると、ちょっとテンション上がるよね」っていう話。

ジェネレーション

今年の3月に『笑っていいとも!』が終わる。

笑っていいとも!』といえば、日本国民なら誰もが知っている番組だ。「ごめんなさいー、わたし、テレビとか全く観ない人間なんで~」と、テレビを観てないことがまるでステータスだと言わんばかりのプライドブス(プライドが高いドブスの意)でも知っている。32年の歴史は伊達じゃない。私がまだ親父の精巣で自由気ままに泳いでいた頃には、タモリは、もうお昼にマイクを握っており、国民はウキウキウォッチングしていたのだ。そんな、テレビバラエティ史の金字塔を打ち立てた人気番組が、とうとう長い歴史に幕を下ろす。これは悲しい。いいとも出演者各人が、こぞってタモリを説得しようとしたのも頷ける。

ただ、誤解のないように言っておくと、私は別に「笑っていいとも!」の熱烈なファンというわけではない。毎日録画している、という稀有な知り合いもいるが、そこまで情熱を傾けて観る番組ではないと思っている。コンビニでジャンプを手に取って「こち亀ってまだやってるんだ、長いなぁ」と思う程度の感覚だ。むしろ、司会のタモリ自身でさえも、そういうスタンスでやっていると思う。なので、『クイズ☆タレント名鑑』が終わったときのような物悲しさとは種類が全く違う。

『当たり前のように皆が知っていたものが、これから生まれてくる人にとっては当たり前ではなくなる』

これが、とても悲しい。そして怖い。広辞苑から、一般的に使われていた用語群がごっそり削られてしまったような感覚に近い。
子供の頃、親戚の叔母さんから「あー、○○ちゃんは○○を知らないか。そうだよね、まだ生まれてないもんね~」などと言われた経験は誰しも一度や二度あるだろう。そのときは「ケッ、そんなの知らなくて当然だろ」と思いながら、有らぬ劣等感を抱いたものだ。しかし、自分がいざ逆の立場になってみると、優越感なんてものはまるでない。「ワシが若い頃は~」と、おじいちゃん感覚で孫に聞かせる楽しみ、みたいなものはあるのかもしれないが、自分が見たり聴いたりしてきたものを共有できる相手が年々減っているという事実は、やはり悲しい。

そろそろ誰か、二代目タモリを襲名してはどうだろう。