ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力編(3)~

『ラジオ投稿記~STVラジオ編~』
『ラジオ投稿記~コサキンDEワァオ!編~』
『ラジオ投稿記~爆笑問題カーボーイ(1)(2)(3)(4)~』
『ラジオ投稿記~伊集院光 深夜の馬鹿力(1)(2)~』

からの続き。

まず、当時の放送について少し。

私が学生の頃に聴いていた馬鹿力は、今とは大分様相が違っていた。「違っていた」と一口にいっても色々あるのだけど、ひとつ大きな違いを挙げるとするなら、リスナー参加型企画の多さである。
今の馬鹿力は、リスナーはおろかゲストすら呼ばない完全引きこもりスタイルが定着しているが、昔は、スペシャルウィークのときにリスナーに電話をつないだり、リスナーのお宅を訪問するといったことが当たり前にあった。また、大勢のリスナーを一堂に集めて、当時のノベルティ『おしりコイン』を使ってギャンブル大会をしたり、珍文が書かれたTシャツを全国のリスナーに配布して、他のリスナーがそのTシャツを着ているリスナーを見つけるというスタンプラリー的な催しをするなど、かなり大規模なリスナー参加の企画も定期的に行われていた。通常のコーナーでも、リスナーに電話口でモノマネ&ボケ回答をしてもらう「○○選手権」のコーナーや、リスナーをTBSに集めて皆で電波歌を歌う「歌声喫茶」のコーナー、他にも、リスナーだけでユニットを結成してCDを販売するといった長期に渡った実験的コーナーも存在し、最近の引きこもりスタイルから聴き始めたというリスナーにとっては想像もつかないようなことが日常的に行われていた。

ここで少し脇道に逸れるが、前述のリスナーユニット(変死隊)のCDは、当時入手するのが本当に大変だった。最初は都内各地での限定販売という形をとっており、荒川の土手などでスタッフが手売りしたりしていたのだが、新潟に住む地方リスナーの私にとっては買いに行くのが困難な場所ばかりだったので、「この感じだと買うのは無理かなぁ...」と半ばあきらめかけていた。しかし、ある日の放送で、伊集院さんの口から「新潟の亀田にある和菓子屋さんに30枚入荷します」と、次のCD販売情報が発表されたときに「あ、ここだったら行ける!」と、その週の土曜日に足を運んでみたのだが、店に到着するやいなや、店員さんから「ああ、すいません、発表翌日の朝に完売しました」と申し訳なさそうに言われ、ションボリしながら帰りの電車に乗ったのを今でも覚えている。「新潟はJUNKをネットしていない地域だから大丈夫だろう」と高を括っていたのだが、熱心な馬鹿力ファンにはそんなこと関係なかったようだ。最終的にネット通販になってからようやく手に入ったのだが、それまでの手に入らないもどかしさたるや凄かった。きっと自分以外の地方リスナーの方も大体そうだったと思うけど。
ちなみに、元・変死隊のメンバーである戸谷さんとは、ひょんなことから数年前にご一緒する機会があったのだが、最初に生で声を聞いたときには「ああ、あの戸谷さんだ!」と、当時の放送と脳がリンクして凄く感動したのを覚えている。

話を戻す。

とまぁ、このように、90年代後半から2000年代初頭の馬鹿力は、リスナー参加型の企画が非常に多かった。こういった企画がなくなったのには、おそらく色んな理由があるのだろうけど、結局のところ、リスナーも伊集院光自身も年をとったということに尽きるのではないだろうか。まぁ、そんなこといったら「えー、でもー、伊集院と同世代の爆笑問題のラジオは、去年、リスナーをスタジオに呼んで仲良くトークしてたよー」と、意地悪なJUNKリスナーから突っ込みが入りそうだが、まぁ"うちはうち、よそはよそ"ということで。
去年、伊集院さんがテレビで「50歳にもなって深夜ラジオとかどうなんだろう、と思って」と話していたが、本人の深夜ラジオに対する向き合い方が、ここ十数年で少しずつ変化してきているのだろうな、と思う(まぁ、全く価値観が変わらずにラジオを続けてる人の方が稀だと思うが)。スタッフが入れ替わったり、帯で朝のラジオを始めたりと、周りの環境の変化に依るところもあるのだろうけど、なんだろう、やっぱり深夜の放送はもう少し続けてほしい。「深夜にあの声を聴くと安心する」っていう人、結構いると思うんだよね。

で、馬鹿力の本放送がそんな感じでリスナーと絡むことが多かったということもあってか、リスナー同士が交流するコミュニティも数多く存在した。
今はSNSが発達したので、ネット上でリスナー同士がつながろうと思ったら(性的な意味じゃないよ)いくらでも手段はあるが、その頃はまだそんな便利サービスは存在していなかったので、個人ファンサイトに設置してある掲示板やチャット、もしくは脳汁を触媒として直接脳に語りかける特殊な手法(俗に言う"ドクドク脳汁テレパシー")で交流するのがスタンダードだった。後半ウソ。
当時、ネット上で伊集院リスナーが集う場所といったら、最初に出てくるのは『イジューインホリック(以下、ホリック)』という伊集院系のファンサイトになるだろうか。ここ以外にも色々あったと思うが、最大手はホリックだったと思う。ホリックでは、その週に馬鹿力で読まれたネタが全て文字起こしされ、各ネタに対して来訪者から投票をしてもらい、ネタに対する集計ポイントで投稿者のランキングを付けるという、よっぽど暇、もとい熱意がないとできない企画をメインに、豊富な伊集院関係のコンテンツが数多く掲載されていた。
リスナー同士の交流も非常に活発で、定期的にオフ会が開かれていた。オフ会には、当時まだ高校生で唯一の地方組だった私も何度か参加させて頂き、慣れないオフの空気に戸惑いながらも、ラジオリスナー同士のふれあいを楽しませてもらった。そのときのオフで知り合った一部の方とは今でもまだリアルに親交があり、ちょいちょい自宅に呼んだり、外で飲んだりしている。ちなみに、自分の結婚式にもそのリスナー友達らを招待したのだが、「あの頃にホリックで絡んでた人たちを、まさか自分の結婚式に呼ぶことになるとはなぁ...」と妙に感慨深い気持ちになったのを覚えている。
当時、ホリック関連で知り合った他のリスナーの方とは、今もツイッター上で薄~くつながっているが、どちらかというと行方知らずになっている方のが多い。こういう話題のときに度々思うのだが、インターネット黎明期にネット上にいた人たちは一体どこに姿を消したのだろうか。このユビキタス社会、ネットにつながらず生活するのは不可能だと思うので、きっとどこかに生息はしているのだろうけど、SNSができたと同時期ぐらいのタイミングで一気に消えたような気がする。私はこれをデジタル神隠しと呼んでいる。

閑話休題

ホリック以外のファンサイトだと、(どちらかというと投稿者寄りになるが) 動力板やボツネタ供養掲示板などが交流の場としてあった。他にもつぼっくさんのところのチャット等、いくつか伊集院系のコミュニティはあったと思うが、自分が特に入り浸っていたのはこの辺の3つが主だった。
ボツネタ供養掲示板は、投稿してボツになったネタを掲示板に書き込んで供養するというコンセプトの板だったが、私の拙いネタにも温かいコメントをしてもらったりと、大変居心地のいい場所だった。ボツが続いても、ここの掲示板に投稿することで、ネタの供養と同時に心が浄化されていた。当時は特に不採用が多かったので、お世話になることが多かった。

で、この辺から投稿の話へシフト。

前述の通り、当時は本当に馬鹿力でネタが採用されず、3~4週に1回読まれれば良い方だった。「ハガキを送る枚数が少ないのかな?」と懐疑的になったりもしたが、当時の自分が書いていたネタのクオリティ的に、100枚出そうが大差なかったと思う。
ネタの送る数については、投稿者の間でたびたび話題に上がるが、こと馬鹿力に関していうと、いくら数を出しても読まれないものは読まれないと思っている。以前、実験として『愛実ちゃんにチョイ足し! 』というコーナーに、かなり無理をして50ネタほど捻りだし、その中で「採用されるならこれかな」というネタを事前に3つほどピックアップしてから放送に臨んだことがあるのだが、結果として、そのピックアップしたうちの2つが放送で採用された。このとき、数を送ったところで意味がないことを悟った。まぁ、その2つのネタを思いつく過程で50ネタ考える必要があったのかもしれないので、全く意味のない行為だとはいわないが、面白いか面白くないかをキチンと咀嚼せずに何でもかんでも送るのは、自分の中のオモシロ基準がブレるので、個人的にはよろしくないと思っている。
昔、さまぁ~ずのラジオで、ふかわりょう氏が「10個のネタを思いついたら、11個目のネタを送ってきてほしい」と話していたが、面白いネタを考えるってそういうことだよなぁ、と素人ながらに思っている。まぁ、1分程度で思いつくネタなんて、たいてい他の人も思いついてるだろうし。もちろん、11個目のネタを量産して送れるならそれにこしたこをはないが、私はそこまで器用、というかオモシロ脳を持ってないので、週に20ネタぐらいが限界だ。

学生時代の馬鹿力への投稿数は週に10ネタ程度だったが、なかなか採用されない中でも、めげずに毎週毎週送り続けていたので、トータルではそれなりに採用は頂いた。が、結局、ラッキーパンチ的なものばかりで、自分が納得のいく採用のされ方は一度たりともなかった。もちろん、放送で読まれたら嬉しいは嬉しいのだけど、なんというか、「すっごくお気に入りの服を着ていったのに、靴を褒められる」みたいな、そんな採用のされ方だったので、どこか自分の中で釈然としないことが多かった。多分、どこがどう面白いのか分からずに送っていたのだと思う。

ここでまた高速を降りて脇道に逸れるが、今現在、正月ということで実家に帰省しており、「そういえば、昔のネタ帳ないかな」と机の中をガサゴソとあさってみたところ、ネタ用の小さいメモ帳が二冊ほど出てきた。で、おそるおそる読んでみたところ、それはそれは目も当てられない酷いネタのオンパレードだったのだが、ネタが酷いということよりも「ああ、この頃の自分ってこんなこと考えてたんだな...」と、ネタを通して当時の自分の精神状態が強く伝わってきて、えらくノスタルジックな気持ちになった。
あと、酷いネタが多いとはいえ、闇属性を持つ高校生の心の叫びみたいな実体験ネタは割と笑えた。特にダメにんげん系のネタを眺めてると『誰のことを言ってるのか分からない内輪ウケのネタで、とりあえず爆笑している自分』『学校に漫画を持ってきてクラスメイトと回し読みとかしてるやつは、俺みたいに本気で本の世界に入っていない』『手淫をしていたら、まだイクつもりはなかったのに中途半端に出してしまったため、気合を入れ直してもう一回する』『クラスでも人気者で上位グループのやつと二人っきりになった場合、気まずさに耐えられるという点では、俺のほうが優位に立てる法則』あたりは、かなり実体験に則している感じがヒシヒシと伝わってきて、笑うと同時に軽く胃酸がこみ上げてきた。完全に闇に飲み込まれる前にネタ帳をそっと閉じたが、またしばらく寝かせてから、良い頃合いを見計らって開けたいと思う。

再び高速へ。

そんな中、第385回(2003年3月3日)の放送で採用されたのを最後に、馬鹿力への投稿をやめた。どうしてやめたのかはハッキリと覚えていないが、当時の自分の状況的に、とても投稿できる精神状態ではなかったのだろう。その1年後ぐらいに、気まぐれで2、3回送ったこともあったが、基本的に馬鹿力への投稿、というかラジオ投稿からは完全に身を引いた。その後、卒論も佳境に入ってきた頃には、半分ノイローゼみたいな感じになっていたので、より投稿どころではなくなっていた。その頃は、自分のホームページに『女形ラジオ』という10分程度のフリートークという名の愚痴を垂れ流した録音データをアップするのが日課で、それによって多少なりともストレスを軽減させていた。女形ラジオを上げていた頃は本当にストレスが酷く、知り合った当初はそれなりに仲の良かったゼミの女教授とも徐々にそりが合わなくなり、最終的に「君は人として大事な何かが欠落している」と真正面から言われたりと(まぁ、それを言われても大してショックを受けなかった自分が何かを物語っている気もするが)、図らずも自分の人間性について見つめなおす機会に恵まれた。

で、まぁ様々な苦難を乗り越えて、どうにかこうにか大学も卒業できて社会人になったのだが、学生のときに腐るほどあった暇な時間は、儚くも遠い日の幻のように消え去り、社会の歯車として働く日々だけが残った。よく就活や就職のタイミングで趣味をやめるという話を聞くが、こういうことなんだなぁとボンヤリ思ったりもした。それでも一応ラジオだけは聴いていたが、投稿を再開するという考えに至ることはなかった。

そんな感じで「もうラジオに投稿することも無いかなぁ...」と思っていたときに転機が訪れる。次回から社会人編。

 

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